
――――――薄い汗の匂い、ほのかなスプレーの匂い、そして女子特有の甘ったるくてまったりとした匂いが混ざり合って充満している。
体育の授業の後、男子は廊下や空き教室などを使って、女子は自分たちの教室を利用して着替えをするのだ。
6時間目の体育の後、残るは帰りのHRと清掃だけという事もあってか、F組の女子達は外の廊下で男子達が締め出されたまま待ちぼうけているのを少しも気にかけずに、いつも以上にだらだらと無駄に喋りながら着替えをし、思い思いにそれぞれ放課後の準備を整えていた。
―――「シズカぁ~、汗シート持ってなーい?」
片桐アサミがよく通る声をはりあげた。
元々短いスカートのウエスト部分を更に折り曲げて短くしながら、首だけを栗田シズカに向ける。
「んー?あー、あるよ~!使う?」
アサミと同じグループ、言わば「仲良しグループ」ってモノに属している一人である栗田シズカは気前よく返事をすると、汗拭き用のウェットシートの入ったパックを丸ごとアサミに投げてよこした。
「さーんくすっ!」
アサミはにんまりと笑いながらそれをナイスキャッチすると、まだほとんどのボタンが開いたままなだらしなく開いているワイシャツの胸元からシートをつまんだ手を入れて脇の下や鎖骨の上を丹念に拭いた。
「ぎえっ、なんか茶色い・・・」
肌の上をものの2、3往復しかさせていないのにも関わらず、シートが驚くほど校庭の砂の色に染まっていたのを見てアサミは思わず声をあげた。
晴天の午後、春とは言え、そんな中で元気にバレーボールなんかしたら結構汗をかくもので、加えてあまりの天気の良さにカラカラに乾ききった砂がそんなべっとりとした肌に知らず知らずのうちにまんべんなく降り注いでいたのだった。
「うわあ、茶色ぉっ!まみれてんねえ~」
着替えを終えたシズカが絡んできた。
すかさずアサミは答える。
「やばくね?この色!マジ最悪っ、ってか全身気持ち悪いし、あー!」
シズカとはいつもこんな感じ、最高な一番の仲良し、打てば響く様な仲なのだった。
意味不明の感嘆符をあげながら教室の隅にある机めがけて砂埃と汗まみれになったシートを投げつけた。
「ちょっと~!ちゃんとゴミ箱に捨てなってェ~!オンナノコでしょおっ!!」
その様子を見ていたシズカが「待ってましたっ!」と言わんばかりに大げさに笑った。
・・・さすがシズカ、アサミは思った。同時にホッとする。
共犯者というか・・・、とにかくなんとなく強力な仲間を得て更に無敵になった様な気がしてテンションが上がる。
「どーせこのあと掃除じゃん?っていうかゴミ箱みたいなモンだし、あすこは!ヤツは!」
いつの間にかアサミの周りに集まって来ていたいつもの仲良しグループの面々、マキ、カナ、ミツコも一斉に笑い出した。
「言えてる~!」
「ハゲドー!」
・・・思い思いの賛同の声でにわかに自分たちの結束を再確認する様に、アサミ達は砂埃と汗まみれになったゴミシートの標的である机の主をふざけあいながら罵った。
主は教室には居なかった。主は体育の後の着替えはトイレでするのが通例となっている。
「・・・ほんっと、腹立つわー・・・」
もう既に別の話題へと切り替わった面々がぎゃあぎゃあとガールズトークを炸裂させる中でアサミは低い声でうなる様に呟いた。
―――アサミとシズカ、マキ、カナ、ミツコ・・・総勢5名の最強(と、思われる)女子グループ達はHRが終わるや否やゴミ箱同然と罵った机の主に清掃業務を押し付けて直帰し、それぞれ着替えて、再集合した。
場所は駅前に新しく出来たばかりのピカピカのカラオケ店。
別に歌うという目的ではなかった。
単なる暇つぶし、そして彼女達のザ・アフタースクールライフに向けての戦闘準備をするという目的。
「どーせ暇じゃんっ!?」
アサミの一声と、間髪入れずのナイスタイミングなシズカのふっかけで満場一致で皆集まった。
―――まだ真新しいカラオケボックスの一室。
アサミ達はそれぞれにホットアイロンや、ウィッグ、アイプチ、メイク道具、アクセサリーやマニキュアやらの「化けグッズ」を卓上に広げて戦闘準備、お色直しに取り掛かる。
今日はこの後、男の先輩にイベントに招待されているのだ。
露出度の高いクラブ系のブランドの服でギラギラとキメ込んだ面々は乙女の戦闘準備中と言えども器用であり、手も口も止まらないままだった。
特に意味は無いが何故か安心するくだらない会話がだらだらとカラオケの個室の薄暗く狭い空間を埋める。
カラーリングを繰り返し、すこぶる水分含有率の低いパサついたアサミの髪はみるみるうちに熱したアイロンによってウェーブ形に捻じ曲げられていく。
アサミは念入りに、いや、くどいくらいに時間を潰しながら仲間たちとのおしゃべりを繋げ、器用にそして丹念に髪をスタイリングし、メイクを強化していった。
アサミは特に意味を持たない、そんな時間が好きだった。
同じ匂いのする仲間達と過ごす、しかし何の意味も無いだらだらとした時間。
いや、好き・・・というより、マシだったのかもしれない。
家に居るよりは。
一人、居るよりは。
―――乙女の戦闘準備はこれでもかと念入りに成されたのだが、それでもイベント開始の時間まで1時間半ほど余ってしまった。
丹念なそれを一通り終え、会話や大体の情報交換もそこそこ終えてしまったアサミ達はやる事を失い、一瞬なんとなく静まった。
そして皆バラバラと携帯をいじったり菓子を食べたり寝転がったりして、結束を失いかけた。
無意識に共有していた意味の無い心地よい時間までもがバラバラと消え失せそうになる。
しかしアサミの
「酒でもひっかけてこーよ!」
の一声で再び沸いた。
勿論、シズカが続く。
「出た!アサミの偽造パスポートっ!」
「ここ、いけるかなあ?」
ポッキーを咥えたミツコが訝しげに加わる。
偽造パスポート、とはアサミが独自の製法で作成した嘘っぱちの身分証明書の事だ。
未成年のアサミ達は言うまでも無く飲酒などご法度なのだが、皆、比較的大人びているし、しかも厚化粧+私服(セクシー系)の彼女達はハタから見ればそれなりに成人に見えるのだった。(少なくともアサミはそう思っていた)
そうであるから飲食店にて酒を注文してもあまり違和感は無いのだった。(まあ、ローカルエリアならでは、なのだろうが)
・・・しかし、もしもその上で、身分証明を強いられたら・・・。
そんな時にアサミの作成した偽造パスポートは大活躍した。
この面子で今までにも何度か飲食店やカラオケやコンビニでご法度の度に使用した事があるが、悪運強く、一度もバレた事は無かった。
さすがアタシ。
・・・内心でアサミは改めて自画自賛した。
そして確信する。
・・・アタシは思うがまま、自由にしたいようにする。
自分に嘘なんてつかない、我慢もしない。
自由に、好きな風に生きる。
誰でもない、アタシの力で。
アタシだけの力で・・・アタシはイケるんだ。
楽しく、自由に・・・そして強く、誰よりも。
こうして心地良い仲間と一緒に、思うがままに。
アサミはその為になら何でもしていこうと思っていた。
そうして同じ熱を発しながら寄り添い笑い、思うままの最高に心地のいい空間の中、一緒に居られるなら。
大好きな自分のカタチを維持していられるならば。
そんな風に、好きに生きる・・・。
そして、そんな思いで在る自分を迎えてくれる仲間達と居られるなら、自分の思いなんてカケラすらもとらえてくれない、とらえようともしない、っていうか顔も名前すらも知らない誰かが作ったルールや規律なんて、本気でクソミソに思えた。
―――「さーすがアサミっ!」
シズカがはやしたてる様に小粋に指を鳴らしてにやっと笑い、アルコールメニューを広げる。
「なんとかなるべ~!」
寝転がっていたカナが跳ね起きる。
「やばいって~!」
ミツコがポッキーを咀嚼しながら笑いだす。
「だからダイジョブだって!」
シズカがたたみ掛ける様に言う。
「違うよお、この勢いでいったら明日学校いけねー!」
ミツコが爆笑しながら答える。
「ぎゃははは!じゃー皆でバックれよーぜ!」
マキがオチの一声で参戦してくる。
皆で、「飲酒」
というタブーを犯す共犯意識のスリルに再び覚醒&結束した面々は、アルコールメニューに群がりながらまたもくだらないガールズトークを炸裂させ始めた。
アサミは一瞬バラけかけていた心地いい空間がまた再結束して沸きたったのを見てホッとしながらすかさずその輪の中に首をつっこんだ。
そう、これ。
アタシが居たい場所、アタシが居られる場所、皆が一緒に居る場所、アタシを迎えてくれる場所・・・。
最高に楽しくて、最強のアタシの場所。
・・・そう、これだ。
―――「じゃーアタシは気付けに、ひやっ!日本酒っ!」
首をつっこんだアサミはアルコールメニューに記載されている日本酒の写真を威勢良く指差した。
「うっそお~!?」
だらしない笑い声と、共謀を誓うシズカの「アタシも付き合いまっせ~!」という間抜けな声を聞きながらアサミは甲高い声でこれでもかとはしゃいで見せた。
―――――初めて利用したピカピカのカラオケ店でのスリル満点の悪企みは問題無く成功した。
良い感じにほろ酔い状態になった5人はアルコールという中学生にしては強力なガソリンを得て更にテンションをヒートアップさせたまま、イベント会場であるライブハウスに向った。
なんとかシズカが誘導したが、一発目にひっかけた日本酒が効いたのか、思いのほか酔っ払ってしまっていた先頭をきるアサミが道を一本間違えた為、5人が会場に到着した時には既にイベントは始まっていた。
イベントは下が中学生(アサミ達が最年少だ)から大学生くらいまでの様々な若者が集っていた。
アサミ達の暮らす街の駅を中心にした一帯を活動拠点にしている若者で構成された、ヒップホップ、レゲエ、R&B等のチームが共同で開催するローカルなイベントであった。
しかし、少なくともアサミ達の様な若い面子にとっては濃厚で充分すぎる程にスリリングなイベントだった。
アサミ達を招待してくれた先輩はその中の一つのヒップホップグループに属している、アサミ達より3っつ年上のナオヤという男だった。
いつも威勢良く、時に挑発的に、ノリ良く、シズカ達との仲良しグループは愚か、クラスの統率をも執りつつあるアサミは、自分にとってガラにも無くお約束すぎる単純さ、純情さがなんとなく気恥ずかしくて、シズカにすら打ち明けていなかったが
アサミはナオヤに密かに想いを寄せていた。
本当なら誰にもナオヤを見せたくない、紹介したくなんてなかったが(惚れられたらヤだし、マジありえないし)本当なら一人で彼の勇姿を満喫したかったが・・・
だからと言って一人でイベントに参戦なんて・・・なんだか「ザ・おっかけ」みたいでカッコワルイし、大体一人だとなんとなく気後れしてちゃんと話す事すら出来そうに無い気がしたのでシズカ達を誘ったのだ。
正直、このイベントにだって、シズカ達には「招待されて~」なんて言って誘ったのだが、ナオヤにほぼ「チケットちょーだいっ!行く行くっ!」と言う感じで押しかけたのであった。
―――薄暗い、というか暗い
地響きの様な重低音、重なり合って怒号の様に響く様々な声、音、呼吸。
本格的にイベントが始まって、ますます沸きたっていく若者たちでギラギラとごったがえす圧迫感に満ち満ちた会場に、所々ぼんやりと射している青白いブラックライトを頼りにしながらアサミ達はとりあえずドリンクカウンターに向った。
しかし、カウンターの周辺には更に厚い人垣が出来ていて、とても5人で溜まれそうになかった。
「みんなっ!ビールでいいっ!?」
先頭をきって進んでいたアサミが振り返り、にやっとイタズラな笑みを浮かべながら問う。
「オッケー♪」
「さんきゅっ!」
暗闇の中、シズカを筆頭にテンポ良くノリの良い返事が返ってくる。
さすがっ。やっぱりこの面子は最高に気持ち良いっ。
そして、さすがアタシ。
やっぱり完璧、このフットワーク。最っ高にいい運びっ。
「ふふっ、まかせろっ!」
様々なモノに共鳴して高鳴る鼓動を抑えきれずにいつもより大げさにおどけながら、ノリの良い仲間達のGOサインを受け、アサミはくるりとドリンクカウンターに向かう。
細い身体をすいすいと人垣の間に滑り込ませ5人分のドリンクチケットを握り締めながら進んでいく。
「ビール5こっ!・・・あ、いや・・・」
カウンターに到着し、注文をしかけたアサミは一度下を向いて自分のつま先を見た。
先週購入して今日下ろしたばかりの新品のピンヒールのつま先がブラックライトのおぼろげな光を受けてゆらゆらと動いて見えた。
―――やべ、酔ってる・・・?・・・ダメじゃん、こんなんじゃ・・・しっかりしろっ!
「ビール、4っつ!・・・そいで、ジンジャーエール下さいっ!」
本当は慣れないクセに調子にノッてカラオケで呑んだ日本酒が確実に体内と脳みそを侵略しつつあるのがわかった。
でも自分だけオレンジジュースなんて、ノンアルコールなんて・・・なんからしくない。
・・・っていうか、シラける。ありえないし。
・・・そうは思ったものの、やはりナオヤに会う前に酔ってしまう訳にはいかないのでなんだかシャクゼンとしなかったがアサミは大事をとって一人だけジンジャーエールで誤魔化す事にした。
どうせ暗いしバレない。
ジンジャーエールなんて、暗闇での見た目はビールだ。
「・・・っオイっ!アサミっ!一人で運べなくねー!?」
突然背後の人垣から現れたシズカに不意をつかれてびっくりしたが、すぐにいつもの調子に戻す。
「やべー!アタシっ、念じれば腕5本生えてくると思ってたっ(笑)」
アサミの応答に爆笑するシズカの笑い声と共に二人は手分けして仲間達の元へドリンクを運んだ。
―――ますます息苦しくなってきた空気は、鳴り止まない重低音に共鳴するみたいにどんどん重くなり、暗いフロアに沈殿していく。
落ち着きの無い照明がそこらじゅうを右往左往し、歓声や、ぶっちゃけあんまり良く分からない音楽やらが鼓膜を激しく打ち続ける。
ステージに程近い、壁沿いに佇む背の高いテーブルを陣取って5人は改めて乾杯の声をあげた。
アサミは改めてそんな怒号の様な空間と、心地よい仲間達とが創り上げている愛すべきこの空間を噛みしめる様に想った。
・・・いつだってアタシを否定しない、こうやってアタシ達が、アタシが創り上げるこんな場所。
そう、我慢なんてしない。
アタシは最高に可愛いアタシの為ならどんな事だって出来る。する。
これらを、アタシを守ってくれるこんな場所を、そしてアタシを守る為なら、何だって出来る。
何だってしていく。
これがアタシの生き方だ。
―――アサミ達が乾杯を終えてすぐにナオヤ達のグループのパフォーマンスが始まった。
一瞬、カッと白く激しく発光したステージにわっと観客達が詰め寄る。
予想以上に人気のあるグループみたいだ。アサミ達もそれに続く。
ほとんど聞き取る事のできない歌詞が次々と弾丸の様に飛び、それを煽る様にうねる低音主体の官能的かつ攻撃的な音。
濃厚で激しく最高のライブだった。
ここに来てからは一滴もアルコールを飲んでいないのに、アサミは完璧にナオヤとナオヤ達のグループが吐き出す空間と音楽に酔ってしまっていた。
ほんの30分そこそこ程度の持ち時間の間だったが、アサミはひどく悦に入ってしまい、ナオヤ達のパフォーマンスが終わる頃には、気がつくと一体誰のものかもわからないビールのカップを片手にしていた。
しかも中身はほぼ空に近くなっていた。
シズカがそれを見て笑った。アサミもなんだか自分が求むる世界のカタチをまた新たに見つけたみたいで嬉しい気分になり、馬鹿みたいにゲラゲラと笑った。
―――最高に、楽しいっ。
シズカ、マキ、カナ、ミツコ、皆・・・みーんなアタシを受け入れてくれてる―――。
・・・今日の為に新調したピンヒール、イメージピッタリの最高にかっちょいい服、周りは全然知らないヤツばっかだけど、なんだか同じニオイがするヤツらがひしめく、息苦しくて心地良い空間・・・。
そして、今日は今からナオヤに会える・・・。
これ以上に無いくらいに完璧な時に、今に、アサミは改めて深い感動を覚える。
勿論オモテには出さない。
努めていつもの番長ちっくな最高にイケてる「アタシ」を装う。
無論、無理も我慢もしている訳じゃなかった。
それが、アサミ自身が望み、創り、維持している世界でのアサミの在り方なのだった。
途切れる事もなく辺りにばら撒かれていく笑い声・・・―――。
―――「よっすっ!酒カッくらうかあっ!アサミっ!ビールでいいっ?」
シズカが笑いをしまいこめないまま問い、ドリンクカウンターに向いつつアサミを振り返った。
アサミは「オッケー!」と言いながらガッツポーズをし、そのままその手をぐるりとひっくり返して舌を出した。
そんなアサミのDEATHサインを見てまたも爆笑したシズカが同じポーズを高々と人垣の中であげながら暗闇の蠢く中に消えていった。
最高っ・・・。
ほんっと、サイコー!
アサミは思う。
・・・体内に流動しているモノ、あー、例えば血液に・・・?
目には見えないが確かに求めていた感情が、いや、なんというか成分?が、それに乗って全身に隅々まで巡り、熱く熱く心地よく煮えたぎるみたいだ。
それらはアサミを、アサミ自身が望む最高に気持ち良い世界へと、たっぷりの完璧な保障付きで誘ってくれる気がした。
根拠なんてまったく見つからなかったけど、怖いくらいにそう感じられた。
そう、・・・怖いモノなんか、不安な事なんか無い。
アタシにはそんなモノ、絶対にありえない・・・。
結局、少しほろ酔ってはいたがアサミは本当に心底そう感じた。
そんなテンションのまま、マキやカナやミツコに絡もうとアサミは彼女達を振り返ろうとした。
しかし、その時、そんな絶頂的なアサミの耳に全く以って予想していなかったとんでもない台詞が飛び込んできた。
依然としてフロアは激しい音と歓声と、なんとも言えない濁りきった通気性の悪い空気に満ち満ちていたのだが、アサミはその声を・・・カナのそれをしかととらえた。
「・・・いーなあ~、シズカのカレ、めっちゃかっこいーしィっ!」
・・・シズカの・・・カレ・・・?
アサミは振り返りかけた身体を一瞬フリーズさせた。
・・・シズカに彼氏が居るなんて、って言うか、ここに居るの・・・?
全然そんな事聞いていなかった。そしてなんとなく妙な感じがした。
なんと言うか・・・、とにかくこの最高で最強な空間に水を注す様な、とてつもなく嫌な予感を察知した。
「・・・ちょっ、馬鹿っ!アンタっ・・・。」
マキの声だった。
アサミは振り返らず、背中でその会話を見つめ続けた。
・・・そして、全てが砕け割れ堕ちる様なカナの一言を聞いてしまった。
「え~?何がぁ?ナオヤ先輩ちょーカッコイイじゃんっ♪シズカめ~、マジいいよねェ~!」
――――・・・フロアの音が消えた。
消失した。
代わりに先ほどまで最高に問題なく心地よいと感じていたはずの音が全て、耳も心もズタズタにしてしまう様な騒音、雑音に聞こえてきた。
「ちょっと!アンタ、声デカイって!知らないのっ?それ禁句っ・・・―――」
押さえ込んでいるみたいに息まじりのマキの声が青ざめたのがわかった。
――――急に息苦しくなった。
先ほどまでは最高に悦楽的だと、快感だと、さすがだと・・・そう噛みしめていたはずの、重たく呼吸のしにくい空気が一斉に牙を剥く。
そしてそんな心地よさを一気にかき消して真っ直ぐにアサミを四方八方から責めたててきた。
・・・―――――っっ!?
―――アサミは一人ぼっちになった。
同じニオイのする心地の良いヤツらが数え切れないくらいに居る、そいで最高に気持ちよく蠢きひしめいている。
そう、最高に気持ちいい仲間達、創り上げていた世界、求めていたはずのそれらと、自分の全てはまだここに居る、存在している。
問題無い・・・。
それなのに・・・――――。
アサミはまだ酔い揺れている感覚で、でも確かに了解した。
せざるを得なかった。予想だにしていなかったその真実を。
知りたくなかった、というか絶対に在ってほしくなかった真実を了解してしまった。
・・・シズカ・・・の、カレシって・・・ナオヤ・・・!?
――――ナオヤは・・・、シズカと付き合ってる・・・んだ・・・?。
ミツコがか細い声でこちらに向って呼びかけるのを遠のき落ちゆく意識で聞いた。
「・・・ア・・・、ア・・・サミっ?!」
・・・アサミは努めていつもみたくスマートに振り返った。
そしてだらしなく大げさに笑った。
・・・そう、いつものアタシ、「アサミ」らしく。
そうしたい、そうしていたい、だってそうでなければ・・・―――。
「げっへえ~~っ!!マジサイコーじゃねっ!?」
―――マジ、サイコウ・・・。
そうだ、マジで最高なのだ。
だって、そうでなければ・・・。
・・・そうあるべきなんだ。
・・・アタシは・・・ここは、マジで・・・最高・・・。
そいで今日、この場所、空間、アンタ達・・・ぜーんぶ、マジで、最高なんだ。
そうでなければ・・・、ねえ・・・、そうじゃなきゃ・・・、そうでしょ・・・?
・・・そうであってよ・・・。
――――マキとミツコ、そしてシズカ、ナオヤはアサミのナオヤへの気持ちを暗に察知していた。
カナは、知ってか知らずか・・・ともかく鈍いのだった。そういう事に関しては。
しかし、シズカはその事実を知る以前に、既にナオヤと付き合い始めていた。
本当に何の悪気も無かった。本当にひょんな事から知り合い、関係を深めていった。
ごくごく自然にそうなったのだ。
しかし、クラスでのそれはおろか、学年的にもイケイケ系で大人っぽい&ワルっぽい風貌と佇まいで目立ちまくり、もうもはやほぼ裏番長的で、少なくともシズカ達にとってはある意味絶対的なリーダー的ポジションに君臨しているアサミに対して、マキやミツコ、無論シズカもその事実を告げられなかった。
暗黙のタブーだったのだ。
しょっちゅう風紀の担当教師はおろか、様々な教師達と衝突し、よくわからない年上の知り合いや男達と関係し、ナメクジみたいに陰気でなんともムカつくゴミ箱机の主、涌井律子に対しての非道ぶりをこれでもかと露骨に発している、常に大人びていてサイケデリックな噂を纏っている片桐アサミに対して、その事実を告げる事は結構な勇気が要ったのである。
ナオヤもまた、そんな人間関係をシズカから聞いていた。
しかも、なんとなくタイミングが悪く、なかなか本当の事を、「シズカと付き合っている」という事をアサミに打ち明けられずにいたのだった。
――――「ちょっと~!マキィっ!カップ空っぽじゃーんっ!!」
アサミは振り返ると同時にマキ達にずんずんと詰め寄り、空のプラスチックのカップを持つマキの腕を掴んでぶんぶんと乱暴に振り回した。
―――威勢良く吐き出す声がどこまでも苦しかった。
悦楽と快感に満ち満ちているはずの今、この最高のはずの場所、楽しくてしょうがないはずの特に意味も無いふざけた台詞が、発するごとに逆流して鋭い牙を突き刺す。
・・・苦しい。
ツライ・・・、キライ?
・・・いや・・・、ちがう・・・、違う!
こんな・・・こんなアタシっ・・・、違うっ・・・。
―――地味にではあったが、テンションの不穏な変化を示し始めたアサミを見て、勘のいいまとめ役のマキは先ほどのカナの台詞とそれを制した自分の台詞とのやりとりをアサミが聞いてしまったのだと悟った。
ミツコもまた、そんなマキの醸し出す急降下していく温度を敏感に感じ取り、閉口した。
アサミのそんな様子を見て一瞬沈黙した二人の間に、未だに絶望的に空気が読めていないカナがこれまたタチの悪い酔っ払い調子で、アサミにとってはトドメとも言わんばかりの台詞を吐きながら割り込んできた。
「げっへェ~っ!マキマキっ!もっと飲めェっ(^▽^)♪シズカめェっ、後でナオヤ先輩と一緒にぶっ潰してやろっぜェっ♪」
―――「・・・っ!!」
――――――・・・・・。
――――そこから先をアサミはよく覚えていなかった。
多分何かしら、穴埋めみたいな空虚な会話、やりとりが成されたのだと思う。
何を言ったのか、どうしたのか、何を聞いたのか、皆がどうしたのか、よく覚えていなかったがとりあえずあの場所を出たみたいだ。
気がつくとアサミは一人、夜道を足早に歩いていた。
満ち沿いに灯るいくつもの街灯を流し、時折すれ違う車のヘッドライトを受けながら、もう真夜中近くになり、とっぷりと沈む街の道をアサミは無心で急いでいた。
急ぎ足で歩く足に慣れない新品のピンヒールはやたらと食い込んできて、一歩一歩が痛かった。
歩む度に反復するその微細な痛みを、意識の隅でぼんやりととらえながらアサミはとり憑かれたみたいに、急かされているみたいに、逃げるようにして一人歩いた。
途中でカバンの中の携帯電話が何度も何度も振動しているのがわかったが、全てのそれを無視して歩いた。
そしてついに足が痛くなって歩けなくなった。
アサミはピンヒールを脱いで両手に持った。
涙が出てきた。
最悪だと思った。
――――真夜中過ぎの夜道を裸足で歩き、やっと家に着いた。
不覚にも濡れた頬は夜風にさらされてとうに乾いていた。
ボロボロになったピンヒールを持ったままの手の甲でそれを一応確認すると、倒れこむ様にして家に入った。
しかし、家に入るや否や玄関で妹のスズコとはち会ってしまった。
階下に降りてきたところだったスズコは、もうとっくに就寝し、今、たまたまトイレに起きてきたらしくパジャマ姿のままで、アサミとの予想外の遭遇に驚いた顔をして立ち止まった。
「お、姉ちゃん・・・?」
・・・ちっ・・・。
アサミは見事な間抜け面をしてこちらを見ているスズコを見てそう思った。
・・・なんでアンタといきなり遭遇しなきゃなんないのよ・・・。
そうこうしているとすぐに玄関先での物音を敏感に察知したのか母親、といってもスズコにとっての母親、アサミにとっては義母であるマサコが廊下の奥のリビングからこれまた寝巻き姿のまま出てきた。
「・・・ちょっと、あんた、何時だと思っているの?」
マサコは門限破りの不良娘を迎えるにあたって、この上なくお約束すぎる文句を吐いた。そして単純に眠かっただけかもしれないが、何か醜いものでも見るような感じに顔をしかめながら近づいて来た。
「いい加減にしなさいよ・・・――――」
マサコが続けて何かしらの説教をたれ始めたのはわかったが、アサミは無意識にそれをシャットアウトした。
それを聞いても何の足しにもならない、すこぶるテンションもモチベーションも下るし、なんだかとてつもなく嫌いな感情が湧き出てくるきっかけになる様な文言だという事を重々に承知していたのだ。
しかもそれが誰に聞かせても、おそらくはもっともな正論であるのだろう内容だから余計にしんどかった。
無論、誰がそう思ったとしてもアサミは見ず知らずのそんな誰か達がどう思おうなんて知った事ではない、と思っていたのだが。
―――マサコが寝巻きの上に羽織った趣味の悪い薄紫色のカーディガンの下で気だるそうな腕組みをしながら、依然としてまだ何か醜くて煙たいものでも見るような顔で何かを喋り続けている。
スズコはおろおろとしながら不安げで弱々しい小動物の様な有様で佇んでいる。
思いもよらぬ裏切りと真実に襲われ、心身共にズタズタになって夜道を裸足で帰ってきたばかりのアサミは、いつも思っている以上にも増してそんな状況が、場所が酷く不快で、辛くて、腹立たしく、そして痛くて悲しくて、嫌いで・・・。
とにかくすこぶる居心地が悪く感じた。
とにかく、すぐにでもこの場所から消えたい、っていうか、むしろこの場所を消したい。
こいつら、いなくなればいい・・・。
シャットアウトしたままである、空虚で疲れきったアサミの脳裏に一瞬そんな事がよぎった。
しかし、アサミはそんな思いを振り切る様に、足元を見た。
裸足の足は思いのほか長い距離を歩いてきたのだろう、薄黒く汚れていてほんの6、7時間前にカラオケの個室にて塗ったばかりのペティギュアもボロボロになってしまっていた。
その現実にまたしても惨めな気分になる。こんなの違う、と思った。
また更に湧いた不快さをかき消す様に、くまなく玄関に置いてある靴を見渡した。
マサコのパンプス、スズコの運動靴、ご近所用のひっかけサンダル、アサミのローファー、ブーツ、ミュール、・・・あとはほとんどがアサミの靴だった。
やっぱり・・・、無いか・・・。
アサミは諦めてまた元の位置、マサコのつま先まで視線を戻した。
マサコはまだ何かを喋っていたが勿論アサミは何も聞いていなかった。
「―――ちょっと、あんた!聞いてるのっ!?」
はっとした。
急にボリュームが上がった声に驚いた。
気がつくとアサミのすぐ目の前までマサコは迫ってきていて、アサミがゆっくりと見上げると、恐ろしく険しい表情のマサコが未だに玄関で裸足のまま立ちすくんでいるアサミを見下ろしていた。
何処まで話が進んでいたのかは分からないが(とは言ってもマサコが喋り続けていただけなのだが)その時アサミの頭上でマサコが吐いた台詞によって、アサミの何かがキレてしまった。
「気に食わないんなら、あんたなんて出てってもいいんだからね?」
怒鳴ったりとか、感情的に高ぶった様な調子ではなく、妙に落ち着いた何食わぬ一言という調子でマサコは言った。
表情まで冷静だった。
――――・・・この女・・・。
こんな事はいつもの事、もう慣れているはずなのにアサミはガラにもなく一瞬取り乱し、泣きそうになった。
が、すぐに俯いてそれをせき止め、先ほど聞きそびれた事を、ほとんど期待なんてしていなかったが一応聞いてみた。
「・・・パパ、帰ってないの?」
マサコはため息まじりに淡々と答えた。
「あたりまえでしょ、甘えてんじゃないよ」
――――・・・きらい。
せき止めてもどんどん熱くなっていく瞼を必死で強張らせながら、俯いたままアサミは強く歯を食いしばった。
自分の力ではどうにも抑えきれない、一番嫌いで不快で、怖い感情がこみ上げてくるのがわかった。
そしてまたそんな感情に支配されゆく自分自身もかきむしりたいぐらい嫌いになっていった。
マサコがまた何かを言い始めたのを聞くか聞かないかくらいの瞬間、アサミはぐるりと踵を返し派手な音をたててドアを蹴り開け表に出た。
明るい照明のついた空間に慣れた目が一瞬くらんでいたせいか、ドアを蹴り開けた瞬間、眼前にあるはずの幾分か視界が利くはずである住宅街の夜の景色が、途方もない絶望的な深い闇に見え、しかもそれがどこまでも続いているみたいだった。
―――「だいっっきらい!!」
アサミは振り返らずに全身を強張らせたまま腹の底からそう吐き捨てると、裸足のままでその闇の中へ駆け出した。
正直、こんなに衝動的で完璧に無計画な行動に出るなんて信じられなかった。
―――――アサミがまだ小学校に上がる前に家にやって来た女、新しい母親、マサコとはどうも折り合いが悪く、だから今までも何度も何度もケンカになったり、衝突したりしてきたが頭の良いアサミはその度ちゃんと前後の事を考えて行動した。
だから粗方のそういったイザコザは大抵そんなに時間をかけずに収束した。
それに、もしも家を飛び出すのであってもちゃんと持ち出す物は持ち出し、ある程度の行き先のアテは作った。
そのくらいの事は慣れてしまえば余裕だった。
それに家を飛び出す、という行為はつまり、たとえ衝突相手がマサコであっても誰であっても、仕事が忙しくほとんど家に帰ってこなくなってしまったアサミの実の父親、信彦に対するひとつのアクションなのだった。
しかし、信彦は最近では特にだが、マサコが家にやって来る前やスズコが生まれる前みたいにアサミの事を気にかけてはくれなくなっていた。
アサミが生まれてから間もなくアサミの母親は病死した。
その後、信彦がマサコと再婚し、現在の様にマサコやスズコが家庭に加わってくるまでの数年間、信彦は「片親で、しかも男手だから」という呵責の念からか、アサミを可能な限り可愛がり、傍に居て、近所の人も感心するくらいに手厚く手厚く育ててきた。
近所のおばちゃんやなんかが、アサミと信彦に会う度にかけてくれる信彦への労いの言葉や、片親を不憫に思っての事か、何かとアサミの世話をやいてくれる度にアサミは自分が大切に守られている事を、たった一人の家族である信彦にとって何にも負けないくらいに「特別な存在であるのだ」という事を幼心で無意識に噛みしめていた。
それはとても満ち足りた思いだった。
実際、アサミは幼すぎたのもあってか、実母との死別をそんなに重たく心には残していなかった。
そして、そんな中でいつでもどんな時でも自分を守り、味方になり、認めてくれた、大切にしてくれていた実父、信彦への依存心はかなりのものになっていった。
だからマサコやスズコが家庭に加わってから、マサコとやりあったりして家を飛び出す前には「大体こんくらいね」と無意識に信彦が自分を探してくれるであろう時間のリミットを決め、それなりの準備をして飛び出して行くのだった。
そういう微細な期待がそんな余裕を産んでいたのかもしれない。
しかし、大抵は3日なら3日というそのリミットが来ても信彦はアサミを探し出してはくれないのだった。
・・・マサコやスズコが家庭に、ここに加わる前ならばそんな事は絶対になかったのに。
アサミはいつもそう感じながら、虚しく寂しく、ふいに起こる憎しみの様な感情を抑えこみながらも、何食わぬ顔をして家路につくのだった。
そしていつしかアサミは、そんな風にして日増しになる孤独感の中に於いて、自分自身を守る為に、自分のマインドをコントロールし、生きていく為に言い聞かせる様になっていた。
―――我慢なんてしない。
アタシは、アタシの力で守る。
アタシの居たい場所を、居られる場所を。アタシを。
誰にも頼らない、邪魔もさせない。
楽しくて、心地よくて、最高で、アタシが願う場所を、在りたいアタシを守る、勝ち取っていく。
その為なら、どんな事だってしていこう。
アタシならできる。
・・・それがアタシの生き方なんだ。
・・・・・そう、もう誰も守ってなんかくれないんだから。
・・・でも、そんな事、全然平気。
――――全くの無計画で、衝動に完璧に身をまかせて飛び出したアサミはもちろん行くアテもなく、裸足のまま闇に沈む住宅街をさ迷った。
いつもならある程度の先を照らす事ができていた自分の視界は真っ暗で、前例の無いそんな状況下、もうどうしていいのかわからなかった。
でも、なんだか絶対に歩みを止めたらいけない気がして、怖い気がして、とにかく歩いた。
多分、駅の方へ、比較的明るい繁華街がある方向へ導かれる様に向っていた。
道すがらそんな全くの無計画かつ衝動的な行動に出た自分への後悔や不甲斐なさ、虚しさや寂しさに襲われた。
頭がもんもんとした。
・・・違う、こんなの違う。
幾度と無く、ぐるぐるとそう思った。
途中、ほろ酔い調子でけたたましい笑い声をあげる男女数人とすれ違った。
全然知らない面々だった。
ふと、シズカ達の事を思い出した。
・・・ナオヤの事も思い出した。
マキ、ミツコ、カナ、つい数時間前まで居た、最高に好ましい時と場所の事も思い出した。
その中での自分の事も思い出した。
・・・そして、それらの全てを裏切る様な真実が判明した事も。
――――きらい・・・。
続いてマサコやスズコが頭をよぎった。
――――きらい・・・。
そして今ではもうほとんど家に居ない信彦の事を思った。
―――き・・・、らい・・・、きらい、きらい、みんな嫌い。
―――気がつくと駅前の商店街の入り口付近まで来ていた。
住宅街よりも幾分かは明るかったが、都心のそれや大きな駅という訳でもないし、ましてや平日の夜中だったので腑抜けてしまうくらいに風通しがよく閑散としていて、しみったれた印象であった。
そんな情景が更にアサミの荒んだ心の外装を引き裂いた。
・・・もう少し歩けばあのライブハウスがある。
シズカ達はもうさすがに帰っただろうか・・・。
いや、マキやミツコやカナはともかく、シズカとナオヤはまだあの辺りをうろついているかもしれない。
先ほどから頻繁に鳴り続けていた携帯をとって彼らに連絡をとり、そこへ合流すれば彼らはきっとそれなりに対応してくれるだろう。
当たり障りのないいつもの様な対応でアサミを受け入れてくれるだろう。
そしてくだらなくて意味の無い、いつもの様な最高に居心地が良くて丁度良い会話を投げあいながら共に時間を潰してくれるだろう・・・。
もう少し行けば、某居酒屋がある。
もちろんアサミは中学生だから、普通なら居酒屋になんて入れるはずもないのだが、そこはとても小さな個人経営の店で、明らかに未成年と分かる様な若者にも平気で酒を出すようなとんでもない場所だった。
無論、アサミにとってはとても居心地のいい場所だった。
よくシズカ達や年上の知り合い達と行って騒いだ場所。
カウンター内にいつも居るオーナーのおばちゃんは、きっといつもの様な焼けただれたガラガラ声でいらっしゃい、と笑ってくれるだろう。
あったかいおしぼりと小松菜と油揚げを煮たのが入った小鉢とビールを出してくれるだろう。そんなおっさんクサイのヤだ、とアサミが駄々をこねればまたガラガラと笑いながら揚げたてのフライドポテトとケチャップを出してくれるだろう。
そいで、「どうしたんだい?」と言ってくれるだろう。
―――もう少し行けば、もう少し歩けば・・・。
考えれば、アテはたくさんあった。
まったく以て15歳の中学生らしからぬモノへの興味や欲望を思うままに実現させてきたアサミには、普通のそんな子供達よりはるかに広いネットワークがあった。
そう、行くアテはたくさんあった。
でも、その夜、アサミはその何処へも行かなかった。
行けなかった、いや、行かなかった・・・。
もう何処にも行きたくない、一体何処に行けば、居ればいいのかわからなくなっていた。
その夜、一気にアサミにとって一番に守りたかった場所やモノが、一番に守りたかったモノと場所によって砕かれたのだ。
そして、本当は帰りたかった場所やモノから、一番に帰りたかったモノや場所を「大嫌い」と全否定しながら、飛び出してきてしまったのだ。
たくさん、たくさんたくさんあったはずのアテは、そのたった二つの崩壊をきっかけに一挙に色彩を失い、アサミの中で極めて虚しく、いたたまれない居心地の悪い場所へと変貌した。恐ろしい場所へとなっていった。
―――・・・なんで、なんでよ。
なんでアタシ、何処にも行けないの?
あんなに楽しかったのに、心地よかったはずなのに、大好きだったのに。
なんで、こんな時になって、何処にも行けないのっ!?
・・・帰りたいのに、守りたかったのに・・・。
・・・なんで・・・迎えてくれないのよ。
アタシ、何でも出来るよ、その為なら。
何だってするのに・・・、してきたはずなのに。
・・・なのに、なのに何で!?
シズカもナオヤも、マキもミツコもカナも・・・。
マサコもスズコも・・・、パパも・・・。
・・・何で、・・・―――れないのよ・・・。
見てくれないのよ・・・、見ないのよ!?
・・・ちくしょう!
きらい!・・・きらいよ、ぜーいん大嫌いっ・・・。
結局何処にも向かえなかった足をまた元来た道へ戻した。
そして少しずつ、つい先ほどまでアサミの中に不動にあったはずの、居心地の良かった場所、守りたかったモノ、帰りたかった場所に対して、ふつふつとそんな感情とは相反するおぞましい何かが湧き立った。
冷え切った手の甲はもう頬をぬぐってはくれなかった。
・・・・・きらい、シズカもナオヤもミツコもカナもマキも、マサコもスズコも、パパも。
・・・みんな、消えればいい。
アタシの気持ちを壊すのなら、アタシを壊すなら・・・。
・・・みんな、みんないなくなりゃいいんだ!
―――道を戻るに連れて、駅前にかすかに浮遊していたいくつかの明かりが遠ざかり、少しずつ闇が足音を深めてくる。
確かに元来た道を戻っているはずなのに、その時よりなんだかもっと暗い深い、気味の悪い闇が迫ってきている様な気がした。
「―――ウソツキ・・・」
その時、アサミは確かに自分に向けられて発せられた音、いや、声を聞いた。
瞬時に振り返る、
・・・そして見た。
マスカラとライナーで真っ黒に縁取られてしまっている両目を眼球がこぼれそうになるくらいに見開いた。
「―――・・・!!?あっっ・・・!?」
――――振り返った瞬間、真っ黒に染まっていた視界が嘘の様に完全に真っ白に発光していた。
そして今までに聞いた事がない、激しく圧力的な音に聴覚を支配された。
・・・直後、心身全ての神経や感覚がねじ切られる様な痛みが一気にアサミを潰した。
・・・しかし、そんな刹那の出来事の中にアサミは見た。
そこに在るはずのないモノを、存在を、確かに見たのだった。
――――「・・・ウソツキ。」
無情すぎるくらい固く冷たいアスファルトの上に仰向けに倒れたアサミは、それがもう一度そう言いながら自分の顔を真上から覗き込むのを遠のく意識の中で見ていた。
「・・・あ・・・・・。アンタ・・・―――」
―――――街灯の逆光を受けてほとんど詳細のわからないそれは、どこまでも深い闇を携えながら、哀れむ様な、蔑む様な、悲しむ様な、妙な空気を混沌とさせながら血だらけになったアサミの顔面を見下ろしていた。
沈まる闇が次第に垂れ込めていく静かな真夜中、車に撥ね飛ばされ、人形の様に力なく転がるアサミの視界の中で、それは痛々しく歪曲しながら消えていった。