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2009/06/29

見てきた!ヱヴァ!

見てきた!ヱヴァ!
えエえぇぇえヱヱぇええええーーーーッッっッッっっ!!!!!


うそっ!?うそうそうそうっそぉおぉおおおおおーーーーーーーーーッッッっッっ!?!?!?!?!?!!?!


……………ってな感じに説明不能、んで、ギリギリなんとか感嘆語で辛うじてあらわせるような………そんな感じに気分がマックスになり、同じくらいテンションもぶっちぎりで↑騰がる…………

…………そんな映画になった、


劇場版『ヱヴァンゲリオン・破』


は、やっぱりすごい。


…めちゃくちゃ良かった。

久々にやる気出た(笑)

…あー、まずい。

次回作まで待てない……。
寂しすぎて死んじゃう。


イライライラッ…o(><;)o


………よぉし。

とりあえずあなたのATフィールドから………

全壊っっ!♪

(※劇場版・破…だけに『破壊的』に八つ当たり〆してみた)(笑)


…P.S

ネルフ携帯にくら替えしたい。(深刻)


苦笑。

Posted by 蓉 on 6月 29, 2009 | | コメント (15) | トラックバック (0)

2009/06/27

~片羽の影~3年F組迷走少女⑧~涌井律子 はつこい篇~

Ritsuko_w

――――梅雨がやけに長い。

これでもかと言わんばかりに毎日毎日雨が降る。

涙腺の緩みっぱなしの空模様。

律子の心もまた・・・なんて事はなく、相変わらずいつもの様にぼんやりとした平素を装ったまま、特には何も変わって無かった。
例えるならば曇天。厚くて重苦しい不快感をおなかいっぱいに溜めた様な曇天・・・。

しかし、以前とは少し違う、妙な感覚が時たまうっすらと心中に疼く様な感じがする様になっていた。
そんな違和感にふと気がつく度に「ウソツキ」・・・そんな声が聞こえたあの夜の様ななんとも言えない不安な気分、怖い気分、落ち着かない気分になってしまいそうになる。


自分でも気がつかない、または気づいていても目を伏せ耳を塞いで逃げ出している感情がその根源にある気がした。


自分自身のものであるはずなのに、自分でも怖くなるくらいに透明な感情。
・・・ほんとうの気持ち。


それにウソをつきそれから逃げ出す事で、可能な限り痛くも痒くもならないような、周囲の色々な人や物にぶつからないような、優等生面した平常心を整えている・・・。

そうする事で身を守る事を、いつからか覚えた。


しかし、最近では律子の中に、少しずつではあるがなんとなく後ろめたい様な気持ちにも似た不安感や違和感が時たま過ぎる様になっていた。

そういう気持ちをふと感じる度に、

・・・・・本当は・・・泣く事が怖かったのかもしれない。


疼く何かの一部がそう囁く気がする。


もし、泣いてしまったら、重苦しい曇天から絶え間なく降る雨の様に止まらなくなる、止められなくなってしまう様な気がしたから。
それなりに懸命に作り上げてきた、自分の在る姿がバラバラになってしまう気がしたから。

・・・それはとても怖い事だから。
とてもとても悲しい事だから。
そしてそれは、自分ではどうにもできない事・・・。


・・・でも、それでも何処にも逃げられないのだ。

自分はここ以外へは逃げられない。

もし、そうしてしまえばそれはある意味「死」を意味する気がした。


でも何故か律子は、死にたくないと思っていた。

どんな襲撃をくらおうと、どんなに痛かろうと、どんなに悲しかろうと・・・。

死にたくはないと思っていた。

・・・まあ、ふと考える事はよくあるのだけれど・・・。

―――律子の身に降りかかる執拗ないじめ、攻撃もまた絶え間なく続いていた。

やっぱり一日のうち最低一度は机が派手に倒されて崩壊しているし、少しでも目を離せば私物は無くなりまくるし、片桐アサミが消えてからはさすがに髪の毛に火をつけられる事は無くなったが、それでも栗田シズカを筆頭にした一群からは頻繁にリンチされかけたりするし、その他の生徒達からも雑用を押し付けられたりゴミを投げられたり、亡霊だとかなんだとか言うワケの分からない濡れ衣を着せられたり、逆に律子の存在ごとそこに無いという感じで無視されたり・・・。

律子にとってはもはや日常となっているのだが・・・。

ともかくそんな毎日は相変わらず続いていた。

勿論、律子は常日頃からそうしている様に、そんな風に自分に差し向けられる周囲の対応や攻撃、扱い等の諸々を特に深く思う事や受け止める事、ましてや反抗する事もせず、只、実直に「そういうものだ、それが普通」と諦めながらあくまで機械的に「処理」していくだけだった。

どんな感情も封じ込めながら。
連鎖反応の様に無心で。


それが自分にとって一番マシな生き方、一番ダメージの少ないやりかた、在り方だと思っていた。

生きていく為に、死なない為にはそうする事より他無いと思っていた。


・・・まるで、意思も意味もないロボットみたいにすればいい。

悲しくない、痛くない、辛くない、悔しくない、寂しくない、何にも無い・・・。

機械のように・・・。

辛うじてやることは、ただ「処理」するだけ・・・。


・・・そのスタンスもまた相変わらずだった。

完璧に慣れてしまっていた。

慣れれば、楽だった。

・・・楽だと思い込んでいた。

そう思い込む事で、周囲から様々な攻撃を受け、摩擦に苛まれ、その度に言ってしまえばぶっちゃけ「なんでよ!?」とか「死ね!」とか言う醜い感情が湧き起こったり、ごくごく人間らしい「寂しい」「悲しい」「痛い」という様などうする事もできない苦しくて惨めな気持ちに気がついたりしなくてもいい。

それに気がついて、それを表したところで誰にも聞こえない、伝わらないと思っていた。

実際そんな事が過去に多々あったのだ。

むしろそんな自分をさらけ出せばますます面白がられたりして結局のところ事態が悪化してしまうのは目に見えていた。

いやと言うほどハマってきたデススパイラル。


もううんざりだった。

・・・結局、そうやって律子は自分の心の何処か、いっとう深い心の何処かを守る様になっていたのだった。

・・・固く固く鍵をして閉ざす様に。

そういう風にして、自分が生きる中で、環境下、状況下に於いて普通に考えれば心に湧き上がる怒りや、悲しみや、寂しさを麻痺させて、ただ諦めて「処理」する、という事に慣れてしまうと、むしろそれ以外のやりかたや考え方、在り方を選択する事が億劫になった。

億劫、無駄・・・いや・・・、怖いのかもしれない・・・いや・・・。

・・・また、律子の中のいっとう深い何処かが疼いた。

―――結局PTA用のスリッパを履くハメになっていた。

16足目のまだ新しかった上履きも、見事に昇天してしまった。

ある日、またもトイレ掃除を押し付けられ、そのまま焼却炉へのゴミ出しまでさせられる事になった律子がほんの少しの間、上履きを置いたままにしたその間に、まだ新しかった上履きは赤子の手をひねるかの如く容易くズタズタに切り刻まれ、教室の机の上にご丁寧に盛られている形で見つかった。


・・・こんな露骨な事をするのはおそらく、栗田シズカか、その周囲を固める一群の仕業だろうと予測がついた。

勿論、だから特にどうという訳でもなく、律子はその亡骸達をたった今しがた空にしてきたゴミ箱に黙って葬った。


―――「処理」したのだ。

律子がやるべきことは、出来ることは、ただ、そうすることだけだった。


確かに湧く感情を捻り潰すのは慣れてしまえば簡単だった。


・・・そんな一連の「処理」作業を終えた律子は、もう誰も居なくなった教室を後にして帰路につこうと生徒玄関に向かって廊下を進んだが、長年の勘・・・、とでも言うべきだろうか、これから向かうその辺り、生徒玄関周辺でなんとなくまた栗田シズカ達が待ち伏せている様な予感を感じた。


新たなる恐怖!・・・乏しい自分のエネルギーを余計に消耗しなければならなくなるであろう攻撃、応戦、「処理」・・・の億劫な一連の作業が待ち伏せている・・・という、妙な悪い予感がした。


――――そういう訳で、律子は音楽室に向かう事にした。


でも、その道中だって、いつ何が、どんな攻撃が降りかかってくるのかわからない。


律子は途中でたまたま調達できた、思いのほか足音がデカくなるPTA用のスリッパを履き、できるだけ音をさせぬように「パタシ、パタシ・・・」とさせながら、まるで何かに怯え、追われる様にしてコソコソと神経を鋭敏に研ぎ澄まし張り巡らせながら、そこに向かった。

―――音楽室の戸はやはりぴたりと閉められていた。


そして室内からは激しく、しかしびっくりするくらい美しく躍動的なピアノの音色が聞こえてきていた。


・・・いる。


律子はそう確信した。

そして、特に躊躇も無く戸を開けた。
不思議なほど自然にそうできた。
室内に居る人物が他の誰かであったら、そうはしないだろう。

しかし・・・

・・・入り口から真正面、グランドピアノに向かって座っている上田イツキの背中が見えた。


骨っぽくて薄くて少しだけ猫背、長めの襟足・・・間違いなく彼だった。


律子はかすかにほっとした。

上田イツキはその物音に一瞬ぴたりと演奏を止めるとゆっくり振り返った。

そして入り口で佇んでいる律子を片目でふっと確認すると何も言わずに向き直りまた演奏を始めた。


・・・出て行け、というのでもない、でも、聴いてくれ、というのでもない。

・・・どうでもいい・・・というのともまた、違う。


・・・居るの。あ、そう。


・・・そういう感じが一番近いのかもしれない。

―――・・・最近、律子は放課後しばしばこうして音楽室に来るようになっていた。

下校時、この間と同様に栗田シズカ達に拉致られそうになった時は勿論、他の不安要素や攻撃の予感を察知する度に音楽室に足が向かう様になっていた。

なんでだか根拠はよくわからないけれど・・・なんとなくここに来れば、とりあえずは安全だと思えるのだった。

―――上田イツキ。


クラスでは専ら一匹狼的存在。


流行や噂や俗っぽい色々に流される事も無いが、確固たる独特の色味を発する妙なオーラのある生徒。


大人たちの眉間をつまむ様な問題を起こす事もない、成績もそこそこ(らしい)。

まあ、風紀の部分では若干の問題はあると思われるが、その揺るがないスタイルに最近では教師も諦め気味である。

・・・耳と口にピアス、紫色のエナメルのバック。


無口で友人も少ないが、別段いじめに遭うとかハブかれている訳じゃない。


どちらかというと周囲を寄せ付けない感じ。
興味の無いものには一切関与をしない感じ・・・。


でも、だからと言って誰かを故意に攻撃したり反抗したりする訳じゃない。

無害。

そして、周りの生徒達からは一目置かれている・・・そんな生徒だった。


というのもおそらく学校生活外での彼の個人的な活動が、そっち系の(音楽好きの)人達の間ではそこそこ有名だったからだろう。

・・・若干15歳にして上田イツキは県内のピアノコンクールで最優秀賞に選ばれた。

物凄いピアノの腕を持っているのだそう。

そして個人的に活動しているバンドもにわかに注目を浴びているらしく、レコードレーベルだかなんだかの、ともかくすごい人達と交渉中だとかいう噂もあった。


・・・しかしながら、そんな独特な存在感と認められた才能、オーラを放ちつつも、上田イツキは周囲への無関心的かつ、全体的に地味ではあるが不動な孤高のスタイルを崩す事は無かった。


・・・そしてそれは律子に対してもそうであったのだ。

律子はこれまで出会う人間、関わる、関わらざるを得ない人間に達のほとんどにことごとく忌み嫌われてきた。または、哀れまれて遠巻きにされてきた。

たいていは痛々しい存在、または忌まわしい存在とされてきた。


勿論この学校、そしてクラス、3-F内でも全員の生徒達にそう認識されているのだろうと思っていた。
事実、片桐アサミをはじめとして、栗田シズカ、その他大勢、ほぼ全ての生徒達からそんな扱いを受けていた。


しかし上田イツキと改めてマトモに接触してみてわかった。


・・・彼は、そんな周囲達とは何かが明らかに違うという事が。

他の周囲達同様、律子をいじめの対象にしたり、または律子の存在を根底から無視する様な事を、彼はしないのだ。

だからといって、やあやあ、と友好的に接触をしてくる事も無いのだが。


・・・なんと言うか、そう・・・遠くからただ眺めている様な感じ。


無視でもない、嫌悪を込めて叩き潰しに来る訳でもない、無論、そっと抱きしめる訳でもない。


ただ、遠くから何も言わずに、でもちゃんと眺めている様な感じ。

その目に、五感にちゃんと映している感じ。


・・・そこにあるものを、ただありのまま認めている感じ。

ごく自然に。


それは律子がいつも選択している様なスタイル、やり方、在り方、まるで血の通わない機械の様に無機質にただ「処理」するというのと似ている様でもあったが、決定的に違う在り方でもあった。


彼のそれには、確かに血が通っている様に思えた。


誰のものでもない、彼自身の血が。


そして、そんな彼の姿勢は律子にとって何故かとても安心できるものだった。


彼に対峙する時、または同じ空間に居る時は何も気張らずとも、何も塞がなくともいい。


自然にそんな気持ちになれた。


無理に何かを打ち消したり、動いたりしなくても、咎められないし疎まれないし、消されもしない。


ただそこに居るだけでもいい。大丈夫。


安心できる、落ち着ける、という気持ちにさせてくれる。

・・・もっとも、そんな感覚は普通なら当然で、しみじみと噛みしめて認識する様な事ではないのだろうけれど・・・。

しかし常日頃からひん曲げた平素を装いながらも、本当は心の奥底でびくびくとしている律子にとっては特別に思える事なのであって・・・。


・・・律子にとって上田イツキは、自分でも気がつかないくらい少しずつ・・・不思議ではあるのだけど、でも妙に安心できる存在・・・特別な存在になりつつあった。

―――演奏に戻った上田イツキはそれからは一切、律子の事は愚かどんな物音にも反応や関心を示す事無く、一心腐乱にピアノを弾き続けた。


いつもの事だった。

律子はただそんな上田イツキの姿を見ながら、まるで生き物の様に躍動的に波打つ美しい演奏を聞きながら、時折窓の外の空や向かいの校舎を駆ける生徒の影等を見たりして音楽室の隅っこに座っていた。

いつもそうする様に。

―――特に何も考えたりはしなかった。

少し眠くなったりさえした。


虚しさとは違う大きくて冷たい穴、眠るように安心して落ちていける様な、そんな大きくて冷たい穴が心を支配していく様な感じ。


その穴は底を知る事ができない様な、深く暗い穴だ。


虚しさや不安、悲しみや孤独によって出来るそれにとてもよく似ている、しかし・・・

律子は安心してそこに落ちていけた。

まるで心身全てを解放する眠りに就いていく様な気持ちで。


誰かと一緒に居て・・・、いや、この場合同じ空間にそれぞれ居る、という表現の方が適切かもしれない。

ともかく律子にとって、そうやって誰かと同じ空間に居る中でそんな気持ちになるなんて異例だった。
特別だった。


いつもなら神経を鋭敏に張りつめさせている、そうしなければ何かを壊されてしまいそうな気がしてびくびくするのが常だったから。


―――上田イツキは黙々とピアノを弾き続けている。


そして、依然として沈黙。


しかし、言葉の代わりに音色が意思や意味を持っているようだった。

どんな言葉も、どんな動作も必要無い、ひたすら響き続けている音色がそう主張しているようだった。


律子は特にそれに応えなかった。

その必要は無いと思えた。

・・・ただ、そのひとつひとつを逃さないように、いや、むしろそのひとつひとつから逃れられなくなっていくという感じ。


ゆっくりと溶け落ちていく飴にでもなったみたいな気分。

律子はただ、じっと座っていた。

ただ目を閉じ、膝を抱え、耳だけをそっとそばだてながら。

とても心地良かった。

自分の存在の無意味さをこんなにも、自分の存在の有している意味を、こんなにも「どうでもいいこと・・・どうでも、大丈夫なんだ」と思えたのは初めてな気がした。

無理やりでもない、急かされる様にでもない、ごくごく自然にそう感じられた。
そしてそれはゆっくりと安らかな眠りに堕ちていく様に自然で、楽だった。

―――・・・ピタリと演奏が止んだ。

いつもの時間だ。

16時50分。
上田イツキはこの時間になるとピタリと演奏を止める。
音色がどんなに躍動していても、脈打っていても構わずに。

まるで何の躊躇も無く、ブレーカーを思いっきり落とす様な感じだ。

もっと例えるなら業火が一瞬にして凍りつく様な落差、とでも言うのだろうか。


急に爆発的に広がる無音に最初の頃はビビった。(あまりびっくりしたので、同時におっかない事とかが起こるんじゃないかと思った。)


しかしもう慣れた。


もちろん特に何も起こらない。

上田イツキは淡々とした無駄の無い動作でピアノを軽くウエスで拭くと、蓋を閉め、エナメルのバッグを持ち、入り口付近にある電気のスイッチを消して出て行く。

一連の動作はほんの3分ほどの時間だ。


いつもいつも、寸分違わぬそんな動作を最後に上田イツキは一人演奏会に幕を引く。


無論、律子は上田イツキに話しかけたりしない、彼もまた同じ。

しかし、上田イツキは電気を消す前にちらりと律子を見る。


・・・消しますよ。


まるで何も言わずに目だけで律子にそう了解をとる様に。
必ず。

律子も何も言わずに目だけでそれを受け取る。
必ず。

・・・はいどうぞ。


それはこの空間に於いての、上田イツキと涌井律子との間に起こる、ほんの一瞬だけの繋がりなのかもしれない。

かすめる様に儚い一瞬の間の互いの認識。

熱の交換。


―――・・・しかし、今日は違った。


いつもの様に16時50分きっかりに演奏を止めた上田イツキはいつもの様に無駄の無い慣れた動作でピアノを拭いて蓋を閉め、エナメルのバッグを手にとった。


律子はいつもそうしている様に目を閉じて膝を抱えたまま、そんな動作の物音を黙って聞いていた。

しかし、そんな時、予想もしなかった上田イツキの声が割りこんできた。


「涌井さんてさ、ピアノ好きなの?」


―――!!?


律子はビビって俯かせていた顔面を跳ね起こした。


おっかない事ではなかったが、そんな想定内の「おっかない事」よりももっと不可解な展開が起こった事にビビったのだ。

見ると上田イツキはきょとんとした顔をしながら、ビビッて逃げ出したくなるくらいに刺さりそうで真っ直ぐな目線をこちらに向けて立っていた。

何かを質問された・・・。
というのは脳みその隅っこの方でなんとなく判ったのだが、とにかくびっくりしすぎて肝心のその内容を一瞬にして忘れてしまった。


ただ、怖いくらいに真っ直ぐ自分に向けられている上田イツキの視線に何か応えなくては!という・・・そう、もはや脅迫の様なその圧力に押し出される様にして、律子は「・・・え、あっ・・・」と、意味不明の声を発しながらしどろもどろになった。


「時々来るけど、ピアノ好きなのかなって」

そんな律子の挙動不審など一切気にしないそぶりで、上田イツキは変わらぬ調子で言葉を続けた。

「・・・あ・・・うん・・・きれいだなって・・・ピアノ・・・。」

自分で発している言葉なのに全く以て自分でコントロールできていなかった。


律子は気がつくとそう応えていた。

そしてその直後、心中でそんな自分の台詞に「はああ?」と思った。

しかし、いつもの様に一気に臨戦態勢には入らなかった。

常時、外部との接触、または摩擦に苛まれる際にそうしているように「処理するだけ」と言う無機質な直列回路にも接続されなかった。


相手が攻撃を加えてこないのが、わかっていた。

相手が自分に対して何の思惑も抱いていない・・・本当にまっさらな状態なのがわかっていた。

敵でも無ければ、味方でも無い、何でも無い互い。
こことそこに在るだけのふたつ。

上田イツキの放つ全ての作用は、不思議と律子にそんな確信をさせるのだった。

・・・しかし、何の根拠もないのに・・・。

律子はとても不思議な気分になった。


―――「そう、ありがとう」

・・・あ、笑った。


上田イツキが真っ直ぐに伸びきって、とても重たそうな黒い前髪で半分隠れた顔面にかすかな笑みを浮かべてそう言ったのを見た。


彼が笑ったのを・・・いや、誰かが自分に向かって、嘲笑や悪意をこめたそれや、哀れむ様な感情をこめたものとは違う・・・

「笑顔」・・・。

笑いかけた表情を久々に見た。

・・・そして、真っ直ぐに自分に向けられたそんな笑顔に、律子はおそらく生まれて初めての感覚、脳天をつん裂く様な感覚を覚えた。

―――・・・それは・・・「恋」というものなのだろうか。


その瞬間、さすがの律子もなんとなくそう思った。

それがどんなものなのか、全く知らないのにも関わらず。


そして別に何も恐くならなかった。


・・・というか、そんな色々で面倒な疑問なんかに振り返る余裕すらなかった。

その瞬間の想いのスピードにはどんな屈折した疑問や逃避も無力であった。

・・・・・あ、これ・・・この人のこういうの、もっと欲しい・・・。


「恋」というものなのだろうか・・・。

しかしそれは律子にとってはまるで・・・嘘みたいな事実。

・・・律子のそんな応えを受けてから、上田イツキは律子との間にあった壁を少しずつ崩すみたいに、だんだんと饒舌になっていった。


それは普段、律子が視界の隅っこで見ていた彼の印象からは考えられない様な一面でもあった。

ほんの5、6分の時間であっただろうか、上田イツキは依然として淡々とした調子であるのは変わらなかったが、次々とよく喋った。

そのほとんどが音楽関係の話題であった。

・・・「普段、どんなの聴くの?」


「去年のライブでさ・・・」

「全曲無音のオーケストラがあって・・・」

「クラプトンが好きなんだ、涌井さんギターも好き?」

「横浜のライブハウスにすごいピアニストがいて・・・」


・・・ほんの5、6分・・・。


律子は半ば圧倒されつつも上田イツキが次々に発する言葉と、もしかしたら誰も見たことは無いんじゃなかろうか、というくらいに少しずつ生き生きとしていく彼の表情に酔わされていっていた。


それはまるで先ほどまでの音色、黙々としながらも時折狂気の如くうねり、なめらかに、でも孤高に生き生きと響いていた彼の奏でる音色のようであった。

そしてそこには、律子が常時誰かと接触する度に恐れていた摩擦、リスク、恐怖・・・・・。

それ故に「ただ処理するしかない事」は一切見当たらなかった。

攻撃、ではなく「迎合」だった・・・。

律子は驚いた。


上田イツキは何の陰りも無くまっさらな状態から、律子を一人の存在としてとらえ、自分自身と開通する回路を見つけると、単純に、ただ素直にそれを喜びながら嬉しそうに繋がりを持とうと働きかけてきたのだった。


それは、まるで幼い子供の様でもあった。

何も、何の陰りも汚れも無い、無垢な子供みたいな一面・・・。


「攻撃」でも無い、「無視」でも無い・・・、「迎合」・・・。


ここにいてもいい、よ・・・。

そんな調子で誰かに接っされる事なんて考えられなかった。
想定外だった。


ましてや今になって・・・。


・・・でも、律子はただ嬉しいと思った。

そして、正直意味はよくわからなかったけれど、とにかく上田イツキが自分に向けてくる言葉や表情や空気を「うん、うん」と頷きながら一心に受け止め続けた。

ただ、もっとそれらを、自分ではない存在、対峙する相手から他の誰でもない自分に向けて発せられるそれらを、ただ欲しいと思った。


できればずっと、欲しいと思った。


・・・常時、感じている自分の立場、周囲の存在。


「処理するしかない、ただそれをしていくだけ・・・」という灰色のスタンス。


常時、感じていた自分の存在価値・・・その虚しさと惨めさ・・・諦め。


「怖い、何されるかわかんない・・・」という恐怖色のアンテナ。

・・・そして・・・正体のよくわからない亡霊。

どういうわけだか着せられている亡霊という濡れ衣。


喚きながら執拗に背後から迫ってくる栗田シズカをはじめとする恐ろしい存在達。


わけもわからずに苛まれる不特定多数の外部からの攻撃と、それらから受ける傷から絶えず滲む痛み。


目を閉じても、耳を塞いでも、諦めて、逃げて逃げても、逃れられない事実。

・・・しかし、そうして上田と対峙しているつかの間、律子はもうきっと一生逃れられないであろう、と諦めていたそんなしがらみ達の事を一切合財忘れる事ができた。

たった5、6分の間であったが、気がつくと律子は時間が、この空間がずっとずっと続けばいいのに・・・。

そう強く思っていた。


先なんていらない・・・きっと恐ろしい現実が延々と続くだけだ。

・・・ならばこれが、この空間だけがずっと回り続ければいいのに・・・。


私の周囲をずっと。

・・・他の誰かからの作用を、そしてその誰か自身をもっと、もっと在ればいいのに、もっとずっと、欲しい、もっと、もっと・・・。


そんな風に感じられた事に、律子はただただ驚くばかりであった。

それを「恋」という風に呼ぶのかどうかは結局よくわからなかったが、
律子は自分の中に湧き出てきたちょっと不安定で違和感があるけれど、なんともいえなく温かで、とても大切なモノである様な印象を感じる想いを静かに認め始めていた。

―――しかし、しばらくすると上田イツキはふっと壁にかけられている時計を振り返った。

そして「あ、やばい」と小さく呟くとまるで瞬時に魔法が解けてしまった様にいつもの無表情さに戻り、小走りに音楽室から出ようと急いだ。

心なしか、その表情には明らかな焦りが見えた。


何か、約束でもあるのだろうか・・・。

突然、またしてもブレーカーが勢いよく落ちる様に途切れてしまった上田イツキとのやりとりにまたもや呆けてしまって、律子は座ったまま、目だけでぼんやりとその背を追いかけた。

・・・もう終わりなのかな・・・、また・・・あえるかな、話せるかな・・・。


そんな小さな不安が一瞬律子の心中をよぎった。


・・・小さいけれど、明らかな不安・・・。

確かな疼き。

でも、何故かそんな気持ちをいつもの様に、封じ込めたい、逃げたい、怖い・・・だから、ただ「処理」しよう、すればいいだけのコトだから・・・とは思わなかった。


もし、いつもの様に蓋をして、強制的にストップをかけてそうすれば、きっとそんな小さな不安感や疼きは払拭できたし、その方が楽だったけど、簡単なんだけど、不快な感情に余計にエネルギーを費やすハメにはならなくて済む訳だけれど・・・。


―――でも、そうしたらきっと・・・先ほどふと気がついた、何かとても温かで大切なモノ、そんな気持ちすらも失ってしまう気がしたのだ。


それは嫌だと思った。


・・・結局、よくわからなかったけれど。


―――「またね」


律子ははっとした。

しばらくぼんやりとなっていた頭の中と視界に改めて血を巡らすと、明瞭になったそこに上田イツキがかすかに微笑む顔が見えた。

上田イツキはそれだけ言うと音楽室を出て小走りに走り去っていった。


彼の、見るからに軽そうな薄い身体を運ぶ、同じくらいに薄くて乾いた足音が小さくなって消えるまで、律子は耳をそばだてながらそこを動かなかった。

まるで、彼の奏でていた音色や、彼がまるで火が点いたみたいに喋りだした言葉達や彼自身に対峙してそうしていた様に・・・とにかく余さぬ様に受け止めたかった。

何故だか心地よく思える音達を、そう感じられた空気を帯びているその人の色々を。

・・・一瞬よぎった小さな不安はいつの間にか消えていた。

心のいっとう深い奥底に、やたらと風通しの良い穴が開いたみたいだった。


悪くなかった。

またひとりきりになってしまうのだろうけれど・・・。


明日も・・・いや、むしろこの一分先、30分先に・・・もしかしたらまたいつものように栗田シズカ達が襲撃してくるかもしれないけれど、それ以外にもきっといつもみたいな怖い事や辛い事がたくさんたくさん降りかかるかもしれないけれど・・・。


途方に暮れる程、果ても見えないくらいに悲しい事、怖い事、どうしようもない、どうする事もできない・・・ただただ「処理」し続ける事以外に救いらしい救いも見つからない毎日が・・・―――


―――・・・終わりの無い寂しさが続いていく・・・。

・・・そう、きっとたぶん、そうであるのかもしれないけれど・・・でも・・・。


律子の中にほんの少しだけ、新しく・・・いや、おそらくはずっと在ったのかもしれないが・・・、でも埋もれていた何かが息を吹き返そうとしていた。


それが何であるか・・・結局のところ、律子は具体的に何も掴めないままであったが。


―――律子は上田イツキが消し忘れた音楽室の電気を消し、退室して、放課後の空っぽの中をふらふらとさ迷う風をきって廊下をひとり歩きはじめた。


真冬に比べて日は随分長くなったみたいだったが、さまよう風は少し冷めていた。

ひとつだけ律子は掴めた・・・様な気がした事があった。


絶え間なく沸き起こる闇、不快なモノ、認めたくない様な醜い思い、果てない恐怖、絶望感、虚無感、寂しさ、悲しさ・・・それからはやっぱり逃れられない。

でも、それと比重を同じくするくらいの何か。

それらを全て覆い、抱く様な何か。

何か、とても温かく、懐かしくて・・・愛おしい感情、大切な何かを自分の中に少しだけだけれど、確かに感じられた。


・・・だから、悪くはなかった。


やっぱりひとりきりなんだけれど・・・。


・・・でも、怖くならなかった。

何を封じ込める訳でもなく、何を捻じ曲げ、固く蓋をする訳でもなく、ただ自然にそう思えた。


まるで幼い子供の様に、無垢で透明に。

そう思えた・・・。


辛うじて、この一時には。


Posted by 蓉 on 6月 27, 2009 | | コメント (3) | トラックバック (0)

2009/06/10

レギュラーな乙女達、イレギュラーな女達

レギュラーな乙女達、イレギュラーな女達
迷える乙女達を導くべく、大体半年ごとにそれぞれ上半期、下半期の運勢を掲載して刊行される数多の占い本…。


…残すところ今年もあと半年…、


こないだの自己分析ついでに…、

常々、未知数で埋め尽くされている不透明な視野をクリアにするべく、残りの半年の運勢をチェックしてみました。


………が、……

…………開けるどころか、
ますます透明度がおちる。


………平均的な視点で示唆される運命に、ことごとく背を向けながら泳ぐイレギュラーメンバーもまた数多にいます。

でも強かです。

Posted by 蓉 on 6月 10, 2009 | | コメント (16) | トラックバック (0)

2009/06/06

AB型の説明書と分析サイトで、我が身を振り返ってみました

AB型の説明書と分析サイトで、我が身を振り返ってみました
……以下、『AB型、自分の説明書』に書かれていた項目、いくつかかいつまみ。


ありえないプランを本気で考えて周囲が困惑する


嘘が高度


『何を考えているのかわからない』が相手の常套句


『土足で中に入ってくるな』オーラが出る。笑顔に。

とんでもないハッタリをかます。


知らない人にはなつかない。

…ナニ?!ナニ!!?ダレ、ダレ?オマエ、近づいてくんなー!!


…でも人がすき。


ノリノリになったら誰にも止められない。
大大大暴走。


ブラックジョークでキレる。


いきなり皿を割ったりする。
バリーン。バリーン…。


誰かが自分の事が好きって知るとその人は『恐い人』になる。


いい年こいて子供のおもちゃで遊ぶ。


来るものは拒まない。

『おいで〜、そこのラインまでね。』


…………以上の掲載項目。

あーわかる、わかる……

って、あんまいいやつじゃなさそうじゃん。私。
がぼーん…。


………でも、すぐめんどくさくなってくる。

…って↑最後の一行も書いてあったし。


がぼーん。(笑)

おっかない本だね、こいつわ(笑)

Posted by 蓉 on 6月 6, 2009 | | コメント (9) | トラックバック (0)

2009/06/05

~片羽の影~3年F組迷走少女⑦~安藤サヨコ、黒信者篇~

Sayokoandou_3f


――――19時ちょうど目前、安藤サヨコは箸を置いた。


夕食は先ほどまだ始まったばかりであった。おかずやご飯もまだ半分以上残っていた。


高校三年生になる兄のケイタが、今夜は珍しくも夕食時に家に居る・・・。


ケイタは一言で言えばギャル系で、夏休みの夜なんかによく駅前で意味も無くたむろっている、金髪やメッシュで髪の毛を彩っている若者たちの一人であり、とにかくサヨコとは正反対のタイプの能天気かつアゲ♂アゲ♂的(笑)男子高校生である。

辛うじて学校には行っているようだが、毎日の様に夜遅くまでバイトだの、日サロだの、クラブでイベントだの、コンパだの、なんだの、と言う名目で出かけており、夕食時に家に居る事はほとんど無い。


以前、携帯電話についていたハイビスカスのデザインのキーホルダーが馬鹿に邪魔そうでしかも女物っぽかったので、なんで?と聞いた事があったが、「彼女が勝手につけてさあ~♪」と間抜けな返答が返ってきた事があった。

サヨコはいつにも増してぞっとした。

なんでこんな人間が自分の血の繋がった兄なのだろう、と心底疑問に思えた。同時に情けなくなった。

・・・19時まで放送される、要点だけを淡々とまとめてくれる国営放送のニュース番組と天気予報が終わるや否や、ケイタは、待ってましたっ!と言わんばかりに速攻でチャンネルを民法のバラエティ番組に変えた。


―――ぎゃはははっ!!・・・―――

先ほどまでの大人しい食卓の空気を壊す様にして、TVからやかましくて耳障りな効果音や笑い声、下品で統一性の無い様々な音が絶え間なく聞こえてきた。


時折、そんな耳障りな音にケイタのだらしない笑い声が混じる。

「ケイタ、少し音量下げなさい。夜なんだから」


そうは言いながらも、そんなケイタの性質をもう半分諦めた様に割り切っていて、スカしたみたいな表情をしながら母が焼き魚の骨をはずしつつ注意した。


サヨコは黙ってまだ熱い淹れたての茶をすすりながらそんな音を静かに聞いていたが、すぐに席を立った。


「あらっ、もういいの?」


母の声を背で聞きながらそのまま「うん」とだけ答えた。


・・・飼い猫のキリと目が合った。

ダイニングの隅で、キリは美しいグリーンの眼でじっとこちらを見つめていた。
・・・多分、卓上の焼き魚を狙っていたのだろう。

しゃがんで床を叩くと、キリはそろそろとなめらかに安藤サヨコに向かって歩いてきた。


キリはサヨコが貯金をひねり出して買ってきたロシアンブルーという品種の猫だ。

青みがかった灰色というなんとも言えなく美しい高潔な色合いの毛並みと、凛としたグリーンの瞳、それに「ロシア産まれ」というなんだかカッコイイ感じのルーツに惹かれ、即購入してきたのだった。


購入から名づけから世話まで、全部サヨコが執り行っているので、家族の中で一番サヨコに懐いていて、サヨコが呼べばすぐに来る。

能天気馬鹿な兄貴とは大いに違って申し分無く、頭の良い美しい猫だ。


・・・まあ、今日の場合、目当ては焼き魚かもしれないが。
その辺はロシア産でも日本産でも野良でもやっぱり猫は猫なのだ。

「もう・・・また?・・・いいじゃないの、TVぐらい。何が気に入らないの・・・」


母にため息混じりにそう言われた。

・・・低俗なのよ・・・。


・・・思ったが言わなかった。
解るはず無いと思ったからだ。

耳障りな雑音にケバ立ってしまった気分を、キリのなめらかで柔らかな灰色の毛並みを撫でながら落ちつける。
キリは心地よさげに目を細めながら従順に、細身で全体的にバランス良く肉のついた美しい身体をくねらせてそんなサヨコの指先を受け止めている。

「サヨ、思春期だからなあー」


TVに何か面白いものでも映ったのだろうか、笑いを頬の内側に少し残したみたいなゆるい調子で、ケイタがまた馬鹿笑いを交えながらTVに向かったまま茶化してきた。

「もう、また貧血になるわよ、置いとくから後で食べなさいよ」

そんな母と兄のケイタに振り向く事無く、サヨコは「いらない」とだけ背中で言うと、キリを抱き上げ、そのままダイニングを出た。

焼き魚がたいそう名残惜しいのだろうか、キリが小さく鳴いた。
構わず抱いたまま薄暗い階段を登る。


・・・2階の奥にある自室のドアの内側に背をつけて、サヨコはほうっと息をついた。


普段から夜でもろくに電気も点けない薄暗いサヨコの部屋は、方々にぼんやりと灯る褪せたオレンジ色の間接照明が圧倒的な暗闇に埋まるようにして灯っていて、ただ静かに長い息を吐きながらサヨコやサヨコの部屋のあらゆるモノ達を見つめている。


部屋の入り口から入ってすぐに目の前に見える壁には、この部屋の色々の中で一番気に入っているあるポスターが貼ってあった。

中世ヨーロッパあたりの時代のお屋敷にでも住んでいそうな真っ白なロングナイトドレスに身を包んだブロンドで睫毛の長い美しい少女と、その少女から魂を奪おうとする様にして寄り添う、黒ずくめの衣に身を包んで大きな鎌を持っている死神を描いた大きなポスターだ。


死神は切れ長の漆黒の瞳を持っている美青年。

・・・全体的な厳かさ、ロマンティックな(サヨコ的には)構図、そして臨場感溢れる画力も気に入っていたが、正直、このポスターはその死神の美少年に惚れて購入した。


漆黒の瞳、そして同じ様に深い闇の色の衣に身を包み、白く横たわる美少女に薄い笑みを浮かべている死神の美青年・・・。

これがサヨコの中でえらくグッときてしまったのであった。

・・・死神の名は・・・ルクサーヌ、そう、ルクサーヌ様。


これはサヨコが後から勝手に付けた死神の名前であった。

もっとも、ポスターを描いたイラストレーターの名である、「ルクサーヌ・キリ」という人物の名からとったものであったのだが・・・。
ちなみに猫の名前もこのイラストレーターの名前からとった。
「キリ」だ。そのまんまである。


しかしながら、サヨコの中ではそんな軽率でミーハーな動機はすっかり都合よく忘れ去られていて、今では、まるで最初からその美青年の死神、ルクサーヌがそれこそ中世ヨーロッパの時代くらいから存在していた重鎮で特別な存在であり、くわえてずっと現代までサヨコを待っていた、呼んでいた気がしていた。

・・・そして、サヨコはいつからかこう思っていた。


―――・・・そんな重鎮で、厳かで、美しく、そして特別であるルクサーヌ様に、私はずっと呼ばれていた。


選ばれていた・・・!

・・・そして、今、この世に生を受けた・・・。
受けてしまった・・・。

・・・でも、何故なのですか・・・?
ルクサーヌ様・・・。


何故、わたくしは、この様な雑多として下品な人間の織り成す世界の中で、同じようにしてこんな場所に、世界に存在しなければならないのですか?

あなたに選ばれた、存在・・・特別な存在だというのに・・・。


・・・嗚呼、どうか、どうかいつかわたくしも連れて行ってくださいませ。

あなたが本当にわたくしを選んで下さっているのならば。

見つめ続けて下さっているのならば・・・。

そのブロンドの美しい少女にそうする様に・・・、美しい漆黒の微笑みで以て、この世界から、いつか必ず連れ出してくださいませ・・・!

―――キリがストンと腕から床に下りていった。

薄暗い部屋の隅にある、所定の場所に素早く移動し、また小さな鳴き声をあげた。

たったの6畳程度の部屋の中なのに、その姿は圧倒的に蔓延る闇に埋まってもう見えない。


サヨコは構わず淡く褪せたオレンジ色にぼんやりと照らし出されたポスターに、ルクサーヌ様に、いつもの様にゆっくりと腰を落としながら祈った。
・・・まるで貴族の娘の如く優雅に。


するとつい先ほどまでのケバ立った気分や、汚らわしい日常や、鬱蒼として身の毛もよだつ様な諸々が魑魅魍魎としている世界の中で廃れかけた精神が洗われていく様に思えた。


これをしないと虫唾が走る。

・・・ほとんど開けられる事の無いカーテンは分厚い暗幕だ。

四方の壁に吊るした黒い十字架、ロココ調のドレッサー、探しに探してやっとリサイクルショップで見つけたクラシカルなデザインの黒いパイプ製のベッドには、濃い紫色のベルベッド生地カバーで包まれたシーツと枕(「洗濯に困る」と母にはたいそう嫌われている)、ゴスロリショップの通販で手に入れたトルソーは黒いアルミのパイプ製で、メリハリのある美しい女性の身体の形をしている。


銀色のアクセサリー類と、「MOON」という名前の、なんとも言えない不思議かつ高潔な香りのするお香等の小物がひしめく小さなテーブル、そこには赤い色のアロマキャンドルが並び、天井から吊るした黒いレースのカーテン(これも探すのに苦労した)で囲んだ部屋の一部分には何着ものゴシック調デザインのワンピースやブラウス、コルセットがこれでもかと掛けられている。


その他にも、所狭しとサヨコの部屋にはサヨコの愛するもの、好むもの達が、サヨコを迎え入れてくれるモノ達がたくさんある。

・・・ドクロの形をしたアロマキャンドルポット、天使のデザインをした置物、黒い薔薇の造花を何本もいけてあるロココ調の丸い花瓶、マリア像、ベルベッド仕立てのクッション、タロットカードのセット、水晶玉、去年ケイタに誕生日にもらった骸骨の手が出てくるトイレのデザインの貯金箱(これは捨てようと思っていた)、世に言うヴィジュアル系のアーティストやクラシックのCD、ゴシック&ロリータ系の洋服や漫画や記事ばかりが掲載されている月刊詩、そして・・・

・・・祭壇。


これはサヨコにとって、死神ルクサーヌと美少女の描かれているポスターの次に尊く、愛しい、特別な場所であった。


祭壇・・・と言っても、あくまでサヨコがそう呼んでいるだけで、元は小さな円形のテーブルだ。


しかし、サヨコは自分の部屋に居る時、寝ている時か勉強をしている(不本意極まりないが)時以外は大体その祭壇の前でくつろいでいた。


・・・何故なら、その祭壇の上にはサヨコにとって、この世界に存在するモノの中では一番特別なモノが置いてあるからだった。


いつもの様にルクサーヌ様への挨拶を済ませたサヨコは、祭壇の方へ向き直り、ぼんやりとした間接照明のみしか手がかりの無い薄暗い部屋の中、慣れた動きでライターを探し出すと、祭壇の両脇に対にして置いてある赤いキャンドルに火を点けた。


ぽうっと滲み出す様に灯った赤い炎は、祭壇の真ん中に立てかけてある大きな黒い十字架のオブジェと、その後ろに貼ってあるサヨコが自ら考案した魔方陣が描かれた紙をゆっくりと薄闇の中から現した。


そして・・・、上田イツキの生徒手帳と写真が、両側の灯りに揺れる祭壇の上、くっきりと浮かび上がった。

それだけではなく、何枚ものピック、切れた弦、男モノのシルバーの指輪、上田イツキが愛用しているシャープペンシルと同じメーカーの同じペン、同じく上田イツキの愛用しているロック系ブランド「SEX&DRUG HEVENSHELL」のキーホルダー、リストバンド、一度だけ一緒に行ったロックバンドのライブチケットの半券、
・・・白い布に丁寧に包んである上田イツキの何本かの毛髪、上田イツキのおさがりの口用ピアス、上田イツキに無断でくすねてきたおんさ、上田イツキが以前使用していたイヤホン、アルミのペンケース、眼鏡・・・。


―――祭壇・・・。


そして、そこを埋める様にして並べられた上田イツキに纏わるモノ、使用していたモノ、関わりのあるモノ、あったモノ達が、薄い闇の中、一層つややかに揺れる2つの赤い灯の祝福を一手に受けながら、それらをうっとりと眺めるサヨコをじっと見つめている。

サヨコもまた恍惚の表情で彼らを見つめ返す。


しかし、この様な事実は上田イツキにはもちろん、他人には絶対に秘密であった。

口が裂けたって言えない。
この祭壇の事も、並べられている物の事も、ルクサーヌ様の事も、独自に考案した魔方陣の事も・・・。


自分の中に渦巻く思想、排他的な考え、強い自尊心、スタイル、強い執着心、これらは揺るがない。

揺るがすつもりもない。


・・・しかし、同時にそういったものは自分以外の人間には認められないとわかっていた。

認められないどころか、「気味が悪い」と忌み嫌われるだろう、馬鹿にされるだろう、傷つくだろう、簡単に侵されてしまうだろう、それは不快で、不安で、怖い・・・そういう事も同時にわかっていた。

そんな風に思いたくはなかったが、そう思わざるを得なかった。

―――だって私は・・・、皆と違うのだ。


特別なのだから、選ばれた・・・そう、特別な存在であるルクサーヌ様に選ばれた、特別な存在なのだから。


この世俗に生きるその他大勢の人間たちになんて、この思想が、価値が、私の事が、理解できるはずはないのだ。


―――・・・でも・・・。


サヨコは上田イツキの写真が張り付いた生徒手帳を手にとった。
写真に真顔で写っている上田イツキの整った顔を見て、一瞬少しだけ頬が熱くなるのを感じた。


・・・心なしか、上田イツキは似ているのだった。

サヨコが頑なに信仰、崇拝、焦がれているあの死神、ルクサーヌに・・・。


サヨコは固く瞼を閉じながら、両手で包むようにして生と手帳を胸に強くあてた。


・・・あなたには、わかってほしい。

あなたにだけ、わかってもらえたらいい。


・・・私の特別な存在の、あなたにだけ。


・・・わかってよ・・・、私をわかって、イツキ。


ぜんぶ受け止めて。

ぜんぶ欲しがって。

見逃さないでよ、1分も1秒も。

・・・イツキ、私を・・・拒絶しないで。


私だけを特別に、あなただけの、特別な存在にして。

愛してよ。


・・・だって、あなたは私の、私だけの特別なのよ・・・?

ねえ、イツキ・・・。


―――強く力を込めすぎた為か、サヨコの左手首がズキリ、と重い痛みを訴えた。


サヨコはそっと目を開け、袖をまくって左手首を見た。

真横に幾筋も入った無数の傷口、リストカットの痕の上、まだ新しい傷がうっすらと血を滲ませていた。


―――・・・なのに、どうして・・・。

どうしてよ・・・どうして、こうなるのよ。


・・・今日も、また当り散らしてしまった。


―――「一緒に帰ろう」と約束をしていたのに、約束の時間を10分過ぎても上田イツキは待ち合わせ場所に現れなかった。


上田イツキは大体放課後はピアノやギターを奏でに音楽室に行く。

でもだらだらといつまでも弾いているのでは無く、きっちりと一定の時間だけで切り上げてくる。

それをちゃんと見越して定めたはずの待ち合わせの時間。

しかし、今日その時間を10分過ぎて彼は現れた。

・・・つい先日もそうだった。


内心では何をしていたのか、何があったのか、聞きたい気持ちでやまやまだった。

たったの10分・・・でもサヨコにとってはそれが10分だろうが10秒であろうが、上田イツキとの間の時間である以上、空白であれば尚更、それはとてつもなく不安な10分、長い10分、になる。


しかし、サヨコはそう痛いくらいに思っていても、いつも何も言わないまま、「別に平気よ」という感じの冷静な様子を装ってしまう。


ガタガタとつまらない文句をぬかして上田イツキに嫌われたくない、そしてそういう風に必死こいている思いの内を知られるのも、まるで手の内のカードを全てさらけ出してしまうみたいで怖かったし、何よりなんだかカッコ悪い、そう思っていた。

なるべく余裕でいたかった。
完璧でいたかった。
愛するものに対しては、特別なものに対しては、尚更のこと。


・・・だって、私は特別なのだから。
そして、この人は私の特別なのだ。
だから、この人も特別。

私にはこの人、この人には私以外はありえない。


だから、つまらない事で壊したくない。

失いたくない・・・。失うものか。

そんじょそこいらの女子みたいに、いちいちつまらない事でメソメソ言うなんて私には絶対にありえない。

・・・サヨコは心中のつまらないもやもやに無理やり蓋をするみたいに、そう一括して固くなに言い聞かせていた。

・・・そうしてサヨコが特に遅刻の10分の空白を咎めないのをいい事にしてか、上田イツキはぼそっと「ごめん」とだけ言って事態の収拾を図ろうとした。

・・・サヨコの中で無理やり蓋をして何とか収めようとした不安が再び溢れ始め、だんだんと怒りに変わっていった。


・・・・・・。

「・・・何でよ・・・何で・・・?何も言わないのよ・・・。


・・・私には・・・私には関係無いってこと?
私は・・・必要無いって事!?

・・・私以外にどんな用事があって、何があって10分も遅刻するの!?

馬鹿にしないでよ!?

私は特別なのよ・・・?あなたの特別なのよ!?

・・・その私が、私がこんなに・・・こんなに想っているのに!!」

・・・でも口には出さなかった。

出せなかった。

そんな文句は・・・らしくない。

ありえない。

つまらない事でガタガタメソメソ言うなんて、余裕の無い、頭の悪い人間がする事だと思えていたからだ。

心中に渦巻くそんな文句達はサヨコにとってひどく低俗に思えた。

無論、口にする事はサヨコのプライドをすこぶる傷つける。

しかし、口には出さないまでもそんな精神的な苛立ちや、怒りに形を変えつつある不安感は着実にサヨコの中を侵していって、だんだんと上手く蓋をする事ができなくなってきてしまう。

・・・・・。

いつも、いつもそうだった。


どう伝えていいか、どう噛み砕くのか、解ってもらう為にどう振舞っていいのか、わからない。

・・・いや、わかる、気はするけど・・・できない。


心の中をよぎる不安感、寂しさ、怒り・・・相手への渇望を、えげつない希望を、幼すぎる甘えを、根底にある率直な愛しいと思う気持ちを・・・そのまま相手に伝わる様に、上手く表現する事が出来ないのだ。

何かを壊してしまう気がしていた。

自分が自分でいられなくなってしまう気がした。

積み上げてきた、創り上げてきた自分の思うカタチが壊れてしまう気がした。
その上に創り上げてきた愛するものとの関係もまた壊してしまう気がした。

怖いのだ。

・・・でも・・・、


・・・・・私は、特別・・・―――。


サヨコの中で難攻不落に聳え立ち、さも呪いの様にがんじがらめに根を張っている、そんなプライドと自尊心が、サヨコの中に生まれる素直な感情や欲求をいつも塞き止めてしまうのだった。


しかも、それは相手を求めれば求めるほど、気にすれば気にするほど、愛すれば愛するほどにますます強化され、単純で素直な気持ちを塞き止め、次第に歪めていき、そんな素直な気持ちとは全く違う形に姿を変え、ボロボロと零れ落ちるようにして相手にぶつかっていってしまう。
いつの間にか鋭利に尖りながら。


―――・・・結果、愛する恋人、特別な人、上田イツキとのその後のいくつかの他愛も無いやりとりの中、だんだんと崩れ落ちる様にヒステリックになっていったサヨコは


「馬鹿にしないでよ!!」

と言う敵意むき出しの言葉をかわきりに、いくつかの不毛極まりない、根拠もよくわからない、ぶっちゃけつまらない文句、罵声を上田イツキに一方的にあびせてしまっていた。

そして、そんなサヨコを呆然と立ちすくみながら何も言えずに固り、ただ見つめているだけになってしまった上田イツキを置いてさっさと一人その場を駆け去ってしまった。


・・・つい、こないだもそうだった。


そして・・・今日もまた・・・、同じ。


破壊・・・そして、自己嫌悪・・・。


触れているものに、愛しいものに、その気持ちが上手く伝えられない度、ヒステリックになり、想いとは裏腹の行動や言動に出てしまう度、そうして尖り傷をつけてしまう度に、サヨコの中で図太い支柱になりつつある、難攻不落にうず高いプライドやら自尊心、サヨコのカタチ、サヨコ自身は深く傷つくのであった。


それは他の何によるものが原因ではない。

やたらと煩いだけのバラエティ番組を見ながら馬鹿丸出しの笑い声をあげるケイタによるものでもない、そんなケイタを横目に見ながらスカした顔をして焼き魚の骨をとり、地味なラインナップでごった返す煮物の器をつつく母親によるものでもない、毎日毎日飽きもぜず、知る価値さえ全く見出せない様な知識を叩き込む教師たちや学校や、駅前にたむろっているだらしない恰好をした若者達の織り成すケバケバしい色彩によるものでもない、ごろごろと流される様にして蔓延っている世の中の、淀む様なむさくるしい人間臭さによるものでもない・・・。

・・・他の誰かによるもの、何によるものでもない。

サヨコ自身の揺るがない世界と、それ以外の世界との間に、サヨコが感じているとてつもなく深い亀裂、確かな空白が原因。

サヨコの特質すぎる高い自我意識やプライドが、そこに同時に隣り合って在るサヨコの中の素直な想いを認める事を恐れ、封じ潰してしまい、結果、蓄積させたフラストレーションに突き動かされて、ヒステリックになり、一番傷つけたくない人へ牙を剥いてしまう。

そして、その度にサヨコは途方も無い自己嫌悪に堕ちていくのだった。


・・・どうして、どうしてこうなるのよ。


こうなっちゃうのよ・・・?


どうして・・・どうしたらいいの・・・!?


そして、それは多感な時期、ケイタに言わせればシシュンキである15歳のサヨコにリストカットという選択肢を与えていた。

・・・サヨコの両腕は無数の傷で埋め尽くされていた。


いつもは長袖の服ばかり着ていたし、制服もいつも長袖ばかりを着ていたので人目につく事は少なかったが、傷の数は着実に増えていっていた。


前のそれが癒えるのを待たずに、またその上に新たに走らせてしまった傷口が、薄暗い部屋に漂うぼんやりとした照明の灯りを受け、生々しく照らし出された。

サヨコは抱いていた生徒手帳を祭壇の上に戻すと、右手でそっとその傷口を押さえた。


塞き止めても蓋をしても、完全に封じる事の出来ない、コントロールする事の出来ない、心の根底に在る本当の気持ちの様に、サヨコの右手の圧力に応える様にして、傷が疼く。
・・・鈍く、しかし叫ぶ様な確かな強い痛みを脈立たせている。


その痛みに、サヨコはきゅっと眉間をしかめた。


―――・・・どうして、どうしてわかってくれないの。


どうして・・・、どうしていつも何も言わないの?


・・・イツキ、一体あなたは何を見てるの?


私じゃないの?私はちゃんと居るの?あなたの中に。

私は・・・私達は・・・特別なのよ!?

・・・だから、わかってよ。
・・・傍にいてよ・・・誰よりも。


一番にしてよ、特別にしてよ!これをわかってよ、私を欲しがってよ、私をわかってよ・・・!!

―――・・・・・もし、もしイツキ、あなたにとって私じゃないんなら・・・私は・・・―――。


――――・・・月光。

厳かに沈みゆく薄暗い部屋の空気を割る様にして、ヴェートーヴェンの「月光」、携帯電話の着信音が鳴り始めた。


はっと我に返ったサヨコはゆっくりと着信音のする方に振り向いた。
ベッドの上に放り出したままであった携帯電話が、夜空に灯る赤色等みたいに暗闇の中で赤い点滅を繰り返しているのが見えた。


サヨコはしばらくそれをぼうっと眺めていた。

濃い紫色のベルベッドカバーの上、携帯電話は登録外の発信者からのメール着信を知らせる「月光」を奏でながら赤い点滅を何度か繰り返し、やがて火が消えた様に音と共に止んだ。

ゆっくりとにじり寄り、画面を確認する。

無機質な光を放つ、嫌に明るいディスプレイの光に、一瞬闇に慣れた目がくらむ。


普段から上田イツキとの連絡か通販、ネット掲示板への書き込み、閲覧、ごくたまに家族間での連絡、それらくらいにしか携帯を使わないサヨコは、久しぶりに聞いたそれら以外からの着信音、登録外からの着信音が鳴った事に内心少し驚いていた。

・・・新着メール  1件・・・。

厚い暗幕と窓の外、夜は音も無く広がり、サヨコの部屋に蔓延る幾重もの闇もそれに同調するみたいにして、更なる深みを増していく。


訝しげな表情を浮かべたまま、サヨコは無機質な白い光を放つディスプレイをぼんやりと見つめながら、心当たりの全く無い謎の新着メールを開くべく、ゆっくりとキーロックを解除していった。

Posted by 蓉 on 6月 5, 2009 | | コメント (3) | トラックバック (0)

2009/06/04

あたしは生がいい

あたしは生がいい
いきる。

あたしは『生』きる。の方。


彼女は『活』きる。の方。

・・・いきる。


いきる、ってこと。

生きる事は大切。

でも『活』きてる事はもっと大切。

そう思う。


ただ、生きる事もとても尊いのだけれど、


更に、『活』きる…、

自分を『活きる』

自分を命いっぱい、いきる。


そして、そんな自分をいつも


『活きよう』、いかそう、………


……『イキテ…イコウ』


……『イカシテ…イコウ』

…という欲求に、

『活きていこう』

という想いはきっと必要なんだと思う。

人には。

Posted by 蓉 on 6月 4, 2009 | | コメント (9) | トラックバック (0)

2009/05/26

居酒屋で巻き戻し

居酒屋で巻き戻し
『ゆっくり大人になりなさい』

十年以上前に某お菓子メーカーが広告にうっていたキャッチコピー。

都内某居酒屋にて…、

ホッピーのナカを注文し終え、一服こきますか、とライターに手をかけた友人に言った。


『…(上記のキャッチコピー)…って、昔なんかの広告で見た言葉なんだけど、
私、結構それ好きな広告だったんだけど…、

本当にゆっくりでいいのかな?それでまかり通るのかな?

って、今は思う』


友人は言った。


『嫌な大人だな』


行儀悪くも、もろきゅうをつついた箸の先を口にくわえながら、私は問うた。


『は…、なにが?』


ホッピー到着。


『こちらおさげしていいでしょうかぁ?』


『あ、はーい』


…友人飲む。


喋る。


『そう思い始めたら、大人だよ。……あ、大人のフリした嫌なガキかも(笑)
俺に言わせれば。』


……THE BOOMの歌の中にそんなんあったなぁ、

と、ふと思った。

『大人なんて大人になろうって必死こいてる子供だろ』


…たぶんこんな感じの歌詞だったかも。


……無理矢理『大人』という外殻を見様見真似でペタペタとつくりあげていく。

意味も価値も理解する暇も強さも無いまま、追われるみたいにして。

…でも、根底でそんな毎日をコントロールしているのは、幼い頃とさして変わらない、ガキの浅知恵かしら。


………『芙美子はさ、もっと肩の力抜いた方がいいよ。
その方が可愛いよ』

…手癖の悪さが産んだお手製の箸置きをピンっ、とこ突きながら『嫌なガキ』は言った。


『うるせえよ、ガキはみんな可愛いいんだよ』

友人は笑った。

『面倒くせえな』

そう言いながら、まだ炭酸の細かい泡が活発に登りたつホッピーを美味しそうにのんだ。

……ゆっくり、大人に…、

ゆっくり…、

あの頃の、

幼い頃の感性を、


疑わない、諦めない、失わない、素直な人になりたいと思う。

…多分、それは妙な小細工を構築しながらヒネていく事よりずっと楽チンな事なはず、と思う。


そのまんまだでいればいいのだから。


…そういう勇気さえ持てれば、いいだけのはず。


………でも、それってなかなかできるもんじゃないよなぁ、

…『面倒なだけ味があるかもよぉー』


……たぶんそんな事を言って笑った。

人生は無駄に長い気がしてたけど、、それはこんな風にして想い、立ち止まる瞬間の長さ分があるからで、


素直に命いっぱい生きれば、たぶん短い。


とりあえず、私には今のところ、それは長い。


……けど、嫌じゃない気もした。

それも、必要なんだと思う。


特に『嫌なガキ』には。

Posted by 蓉 on 5月 26, 2009 | | コメント (10) | トラックバック (0)

2009/05/22

~片羽の影~3年F組迷走少女⑥~上田イツキ、白鍵篇~

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―――――――!!

逃げ惑うさ中で、・・・何故足がここに向いたのだろうか。

逃げているのだから、救いの可能性がある場所へ、おのずと人は向かうものだ。

意図的でなくとも、本能的に、無意識に。


多分、そうだった。

ついこのあいだのこの場所での、上田とのあの一件を身体が覚えていたのだろう。

「この場所で上田に会えれば・・・もしかしたら救ってくれるかもしれない・・・」


そう身体が覚えていたのだろう。


厳密に言えば上田は攻撃を受ける律子や、攻撃し続けてくる栗田シズカ達に直接作用した訳じゃないし、むしろ残忍なリンチ劇に幕引きをしたのは栗田シズカ達の方だ。

・・・しかし、律子の身体、律子の心の奥底、無意識に近いそこは、そんな残忍な一件のその後の上田が少しだけ垣間見せた、いたわりとか優しさの気配のする一節のあの事。
血止めにあてがう様にと投げてよこされたあの黄色いウエスの事、そんな接触の記憶をしっかりと刻んでいた。

無論、律子自身はそれをアテにして自分がここまで逃れてきた、という衝動に気づいていない・・・いや、気づいていたが認めていなかった。認めたくなかった。裏切られる痛みをよく知っていたから、アテになんて、救いなんて、求めたくなかった。

とうの昔に諦め、封じ込めたはずの感情。

他の誰かに救いを求める事、他の誰かに自分の手をとってもらう為に求め、追いかけ、のたうちまわる行為なんて、今現在の律子の中では、完全に無意味な徒労と思えていたのだ。


何度も何度もそういった事を繰り返しては跳ね除けられ、あざ笑われ、逆に更に攻撃され、その度にどうして?なんで?と出口の無い疑問符の嵐に巻かれては、次第にひとりきり自己嫌悪に苛まれ、そうして何度も何度もただ深く傷ついては、何も言えず、伝わらず、結局は誰の手も救いも得る事もできないままひとりきり、感情を悲しみや寂しさでいっぱいの闇の中に沈めなければならなかったから。


それはとてつもなく惨めで悲しかった。

かつてはそんな事が起こるたび、そんな気持ちになる度に、誰にも聞こえないからと押し殺した声が埋まり疼く喉の粘膜が、腫れあって血が滲んでいるみたいに痛み、顔が涙で飽和してズキズキと痛んだ。

何の救いも、何の安息も、無い。

結局は何にもならない。

動いたって無駄・・・。

ただ疲れて虚しいだけ。

そうやって無駄に生命エネルギーを消耗するだけのそんな行為は・・・とうの昔に諦め、封じ込め、棄てたはずだった。

虚しいだけの行為に充てるなら、自分の護身の為に、確かなものの為に充てたかった。

・・・しかし、律子は息を激しく乱しながら音楽室の戸の前に立っていた。

そして室内から激しく、しかし優雅に、なめらかに聞こえてくるクラシックピアノの音色を聞いていた。

市販のCDのそれの様に、あたかもプロの様なその音色の美しさや、まるで生き物の如く脈打つ音の全体につい気をとられ、しばし暢気に立ち止まって聞き入ってしまっていた。


―――ガンッッッ!!


しかし、そんなひと時も物凄い勢いで背後からかすかに頬をかすめながら飛んできた木工用のハンマーに一瞬にして引き裂かれた。

戸にぶつかり、足元のすぐ脇に落ちたハンマーを見る。

その瞬間、一気に現実に戻った律子は、後方から聞こえてくるえげつない罵声と徐々に大きく激しくなる上履きが廊下を蹴る音を聞き、みるみるうちに自分の背筋が凍りつくのを感じた。

・・・こわい・・・怖い!嫌だ、いや!


・・・助けて・・・ねえ、助けて!!

勿論、こんな事は常々で、いつもいつも、どんだけ!?ってくらい遭遇してきた。
そしてそんな出来事がどんな風に転ぼうとも、被害を受けようとも相変わらず手馴れた気持ちで「処理」してきた、出来るはずだった。


・・・とは言え正直、やはり恐ろしいものは恐ろしいのであって、できるなら回避したいのは山々だった。

・・・誰かに助けて欲しいのは山々だった。


そんな二つの思いの落差に、一瞬、認識できる意志を超える本能的な何か、長らく封じ込めてきたはずの心の奥の何かが発動してしまったらしく、律子は徐々に接近してくる恐ろしいもの、敵達の圧力に押されるがままに、目前に白く静かに佇む音楽室の戸に手をかけ、勢いよく開けた。


・・・つい先ほどまで躍動的に生き生きと、まるで流れる血液のような美しい音色が、ばつり、と止んだ。


開け放った戸の向こう、すぐに上田イツキの背面が見えた。

グランドピアノに向かって座り、まるで氷の彫刻の様に微動だにせぬ上田イツキの背中を確認した律子は、根源のよくわからない衝動に突き動かされるがまま、その背中に向かって音楽室に駆け込んだ。


・・・そうしてやっといつもの平常心に近い状態に心を戻した律子は、またも動揺し始めてしまう様な現状になっている事に気がつき、驚いて硬直した。

・・・上田イツキの背中目掛けて駆け込んだ律子は、こともあろうにその上田イツキの背中にすがる様にしっかりと抱きついていた。


・・・上田イツキは何も言わなかった。
そして依然として微動だにしなかった。


そのあまりの無反応さに、「マネキンか?」「生きている人間なのか?」とさえ一瞬思えた。
自分のありえない行動より、むしろそっちの方がちょっと怖いくらいだった。


間髪入れずに激しく息を切らしながら、ギラギラとした鋭い敵意をこれでもかと発する眼を光らせながら、栗田シズカ率いる一群、あの日の音楽室での一件の時と同じ、最強&最恐の面子、4人の女子が血に飢えた狼の如く、騒々しい物音と罵声と共に音楽室に駆け込んできた。

「ナメてんじゃねーぞ!亡霊っ!!」


振り返ると怒りに、いやもう殺意・・・。
それを溢れんばかりに放出させながら栗田シズカ達、4人の女子達が肩で息をしながら物凄い形相でこちらを睨んでいた。


しかし上田イツキの、男子の背中に張り付く様にしたまま、栗田シズカ達に振り返り、戦慄いている律子を見やると、何か新しい悪戯を思いついた残酷な子供の様に栗田シズカがニタリと表情を緩めた。

「・・・へ~え・・・、そーかあ、そういうことォ・・・」


栗田シズカがそう言いながら含んだ笑みに悪企みを忍ばせながらそう呟くと、後に続いていた井川マキ、小島ミツコ、吉川カナの面々もボスの(もうそういう事にしていいだろう)栗田シズカのそんなテンションの変化をちらちらと確認しつつ、次第に同じ様に含み笑いに顔を不穏な色に歪ませながらクスクスと笑った。

「・・・亡霊のクセに、ちゃっかり人の男に手ェ出しちゃってた訳だぁ~・・・」

栗田シズカが嘗め回す様にもったいぶりながら実にいやらしい調子で嘲笑った。

「身の程わきまえろよな」
と小島ミツコ。

「脳みそも亡霊並みなんじゃない?ますますうざいし」
と吉川カナ。

「ってかこれじゃあ亡霊どころか、疫病神も兼任じゃね?」
と井川マキ。

どっと笑い出す一同。
しかし、そうしてしばらくはそれなりに井川マキのナイスオチの一言にウケていた栗田シズカだったが、程なくしてそんな嘲笑に満ちた空気をかっさかばく様にすたすたと室内へ入ってきた。
そして何も言えず、逃げ出す事もせぬままじっと固まっている律子の前まで来た。


「・・・魔女みたいな女の男に亡霊がちょっかい出すとかね~・・・、っつーか、あの世でやれよ、ちょー目障り」


栗田シズカが更なる毒を吐く。

そしてその毒を吐き終わらないうちに、素早く身を低くし、萎縮したままでひたすら嵐のすぎるのを待つだけの姿勢でいる無防備な律子の前頭部に手を伸ばすと、前髪もろとも髪の毛を根こそぎ荒っぽく掴んだ。

そしてその拍子に、思わず「ひいっ!」と小さな悲鳴をあげかけた律子を容赦無くひきずり出そうと引っ張った。


・・・その時だった。

―――「いたぁっっ!!!」


激しい痛みと絶望的な恐怖の中、律子は先ほどまで「そっちの方が地獄の使者かなんかではないのですか?」と言わんばかりに残忍な罵声と嘲笑で律子を罵って攻撃していたはずの栗田シズカの悲鳴まじりの声を聞いた。


それと同時に、律子の髪の毛を根こそぎ毟ってしまいそうな勢いで掴んでいた栗田シズカの手も離れた。


そのはずみで律子も派手に床に打ち付けられたが、「気を抜くとまた新たな攻撃をくらう!」と無意識に身体が判断したのか、すぐに身を立てなおし、悲鳴まじりの声の主へ視線を上げた。


・・・栗田シズカが両手で左目を押さえながらよろめいていた。

まわりにはそんな栗田シズカをおろおろとしながら囲む井川マキ、小島ミツコ、吉川カナの3人の女子達。


「・・・う・・・ううっ・・・クソっ!テメェ!・・・上田ぁ!」


栗田シズカが左目を抑えながら、ギロリと残った右目だけで鋭く睨みつける。

その眼光は両目でそうしていた時よりも更におぞましく、怒りと殺意に満ち満ちていた。
しかし、その矛先は律子では無い。

律子の、後方・・・、律子は床に座りこんだままそっと振り返った。


「出てってくれる?」


ああ、マネキンじゃなかったんだ・・・。
・・・って、違う。
そんな事はどうでもいい。


律子の背後には、先ほどまで生き物かどうかを疑ってしまうくらいにピクリとも諸々の一部始終に反応を見せず、微動だにしないまま静止してピアノに向かい座っていたはずの上田イツキが立ち上がり、こちらを向いていた。

「邪魔だから・・・出てって」


上田イツキの微妙な感情の高鳴りが、元々抑揚の少ない彼特有のぼそぼそとした口調の中に垣間見えた気がした。
そして、そんな言葉よりももっと・・・ただならぬ何か。


上田イツキは常時そうである様な空気の様な透明さと、抑揚の無い透明な雰囲気からは想像し難い様な、無音のビリビリとしたどす黒い空気、オーラの様なものを発していた。
明らかな嫌悪感を帯びていた。

確か・・・あの朝、片桐アサミの訃報の発表があった朝、律子に対峙した安藤サヨコからもこんなのが出てた。

恋人同士は似るものなのだろうか。

しかし、何があの無機質な上田イツキをそうさせたのかはわからなかった。


・・・・・、まさか、私を、助ける為・・・??


・・・。
いや、違う。

まさか、そんなはずはない・・・、ありえない。


こんな修羅場だと言うのに、律子はふと、そんな事を考えてしまっていた。


場慣れは場慣れでも、修羅場慣れ、といのだろうか・・・こういうのは。
色んな意味で普通の神経が麻痺していっている気がした。まあその方が律子にとってはいいのだが。


「・・・っっざっけんなよ!!てめえら、二人とも死ねっっ!!!」


依然としてよろめきながらも辛うじて捨て台詞を吐いた栗田シズカは、3人の仲間たちに支えられる様にしてなんとも不恰好な感じにジグザグとよろめきながら音楽室を出て行った。
今回ばかりは一群のボスである栗田シズカが負傷した為か、周りの3人の手下達(これも、もうそういう事でいいだろう)も重ねて汚い捨て台詞を吐く余裕のある者はおらず、4人はそそくさと修羅場から消えていった。

この間のこの場所での一件の時の去り際とはえらい違いだなと思った。


急に静かになった現場で、律子もやっと落ち着きを取り戻した。
そして、途端に広く具体的になった視野の中、律子のすぐ眼前の床の上に一本のタクトが落ちているのを見つけた。


スタスタと歩き出た上田イツキが何事も無かったの様にそのタクトを拾い上げた。
そしてポケットから出したウエスでそれを丁寧に拭きはじめた。

栗田シズカの目を撃ったのはどうもそのタクトらしかった。
そして多分投げたのは、この男・・・上田イツキ。


上田イツキは丹念に撫で回す様にしてタクトを拭いている。

そしてやはり特に律子の存在を意識している様子は無かった。


でも上田イツキのそんな挙動は律子がいつも感じている様な、周囲からのあからさまな自分の存在に対する無視、意図的な排除、という露骨な感じではなく、むしろ律子の存在がそこにあろうがなかろうがそんな事は二の次で、それよりももっと関心を持つものへだけに向けられている意識がひとつそこにあるだけ、という感じだった。


不思議と嫌な感じはしなかった。


むしろ、律子にとって、上田イツキの方が居るんだか居ないんだか認識する事も忘れそうなくらいにごく自然にそこに・・・あっ、在たの?・・・という感じだった。
神経という神経をすみずみまでぴんと張り巡らさなければやられる・・・という常時携えている律子のある種の緊張感がするすると脱力していく様だった。


・・・あ、なんか・・・楽・・・。
音も無く空気が抜けるみたいに、律子はそう感じていた。


そして思わず律子は声をかけてしまっていた。
まさか自分から誰かに声をかけるなんて、かなり久しぶりな気がした。
ただそれだけの事なのに、妙にドギマギしてしまった。

「・・・あ・・・の・・・、あ、ありがと・・・。」

正直もっとなめらかに言葉が出ると思っていた。
しかし予想に反して声帯から出た言葉は、マトモに話したこともない相手へかける言葉の第一声にしてはあまりに無骨であった。

そんなたった一言でかなりのエネルギーを消費してしまったのか、律子は自分の吐いた言葉に赤面して俯いた。

・・・何で・・・、一体私は何をしているんだろう・・・。
早く、早くこの場を離れなくちゃ・・・怖い目に遭う前に・・・。

全く以て異例な外部へのコンタクトを図るさ中でも、律子の脳は一応は通例の神経回路を走っていっているらしく、ぼんやりとそんな指令を意識内に滲ませていく。


しかし、そんな指令に反して律子の身体は未だに床に座ったまま、ぼさっと上田イツキの背中を見上げていた。

「え?」


上田イツキはそう言いながら長くて黒い前髪で半分隠れた狭い顔面で律子を振り返った。

その顔色にも表情にも先ほどの荒っぽい一部始終の余韻など全く残っていなかった。

丁寧に手入れされた白い仮面みたいなその顔は、この間初めて接触した時に感じたのと同じ、抑揚の無い落ち着き、真っ暗闇に艶めく湖面みたいだった。

「なんで?」


上田イツキが呆けたまま真顔で答えた。


「え・・・あ・・・、た、助かったから・・・」


・・・別に自分の事を助ける為に上田イツキが栗田シズカ目掛けてタクトを飛ばした訳じゃない・・・。


心の上澄みではそう思っていながらも、奥底の方では正直に感謝している訳であって、律子はその旨を何故かどうしても伝えたくなったのだ。
例えそんな事を知ろうが知るまいが、律子がどう思い、どう関わってこようと、居ようとも、上田イツキは特に何もしてこない。

何も感じたりはしないだろう・・・

そして、何の被害も無いだろう・・・。

だから、同じ場所に安心して一緒に居られるだろう。


そんな妙な安心感が、律子に慣れない言葉を喋らせていた。


「そう」


上田イツキはそんなたどたどしくぎこちない律子の言葉に対して、特に訝しげな反応や、嫌悪、警戒心や敵意の色味を見せる事もなく、相変わらずぽかんとした空洞の様な形をした相槌の言葉を吐いた。


全てのやりとりはとてつもなくなめらかで、どこまでも空っぽだった。
でも、何故か心地よかった。


やたら風通しの良いそんなやりとりのさ中で、すっかりタクトを満足いくまで拭き終わった上田イツキは、そのままスタスタと律子の後方にあるグランドピアノに向かって歩み寄ってきた。
律子は特にもうたじろいだりはしなかった。
上田イツキの目標が自分では無く、後方にあるグランドピアノだという事がよくわかっていたからだ。
律子のそんな予想通りに、上田イツキはそのまま律子の横を少しだけ甘い香りのする空気を連れながら通り過ぎ、ゴトン、とピアノの椅子を直した。
(香水とかつけるんだ・・・。)

「出て・・・もらってもいい?」


立ち上がり、でも振り向かないまま、背後でそんな上田の無骨な台詞を聞きながら、律子はしばらくの間その場にとどまっていたが、ガコン、というおそらく上田イツキが椅子に座ったのであろう物音を背中で聞くと、そのまま音楽室を出た。


「ありがと」


戸を出た律子は再び立ち止まり、振り向かず、そして今度はどもらずにはっきりとそう言った。


・・・誰かに真っ直ぐ言葉を、気持ちを示すのが・・・怖くない・・・気持ちいい。
そう思えた事。


・・・それと・・・


上田イツキの


「出てって」


と言う無骨で、明らかな嫌悪感を色濃く感じさせる様な言葉ではなく

「出て・・・もらってもいい?」


と言う、もちろん無骨ではあるのだが、かすかに優しさを包んだ様な・・・。

無論、同じ意味だが、何処か違う、やわらかな作用が、自分に向けられた様な気がして少しだけ嬉しかった。


・・・・・勘違い・・・。

律子は頭ではすぐにそう思ったが、律子の心は、懐かしくて、次第にゆっくり染み入る様なあたたかさに、少しだけ揺れていた。

Posted by 蓉 on 5月 22, 2009 | | コメント (3) | トラックバック (0)

2009/05/15

~片羽の影~3年F組迷走少女⑤~上田イツキ、安藤サヨコ編

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確かめる様に念入りで、重苦しい文句が聞こえた。


――――――「・・・いいか、落ち着くんだ。もう一度言う。」

・・・片桐が、事故に遭った、そして明朝、息をひきとったそうだ・・・」―――――

さらさらとうなじの辺りを通過していく微風が急にひやりとした。


律子は廊下に枯れ枝みたいに腑抜けて立ちすくんだまま、呆然と室内のやりとりに耳をそばだてていた。

いつもの暑苦しいくらい図太い声のはずの担任の神田が、おずおずと言葉を選びながら発したその言葉が脳内を回転していた。

・・・急に濁音の混じった、わっ、という泣き取り乱した声が聞こえてきて、はっと我にかえる。

それは多分、栗田シズカの声だった。


「うそお!うそでしょ!?だって、だって・・・そんなっ・・・―――」


後に言葉が続かなくなり、栗田シズカと思しき声は決壊したみたいに激しく乱れた声をあげて泣き始めた。


それに続くようにして、重苦しいざわめきの声や数人の泣き声等が室内からどんどん重複して聞こえてきた。


「・・・俺もまだ連絡を受けたばかりで、正直信じられない・・・、本当に、残念だ・・・」


くしゃみで簡単に吹き消えてしまいそうな神田の声がした。

――――・・・。


死んだ・・・?

・・・片桐アサミが・・・、

・・・!?

死んだって・・・―――。


・・・徐々にこれまでの一部始終の言葉の意味や現状を理解し始めた律子はじんわりと全身に汗をかいた。

身体をかすめて吹き抜ける風が更に冷たくなり、全身が震えた。そして思った。

「・・・亡霊だ・・・、本当に居たんだ・・・。」


廊下に立ちすくんだまま、律子がそんな思惑を巡らしていると、背後からため息を交えた様な女の声がした。


「・・・呪い・・・。」


驚いて飛び跳ねそうになった。

ほんの少しの気配すら感じなかった。

見ると律子の背後にはいつからそこに居たのか、全身が黒いオーラで纏われているみたいな雰囲気の安藤サヨコが、それこそ亡霊か死神みたいにゆらりと立っていた。


季節感0の年中かっちりとしまったブレザーのボタン、袖口にたまに見える赤い傷の痕を隠すためだろうか、真夏になってもシャツ姿にはならない。
短めのスカートに太ももまである黒いニーハイソックス(露出が嫌ならスカートを規定の長さにすればいいのにと思う)病的に青白すぎる肌、明らかに不自然な色の瞼の上にはやはり黒いアイシャドウがのっているのだろう、そしてうっすらと赤く色づいている小さな唇、黒髪の、まるでヘルメットみたいに形の良い綺麗なボブカット、眉を覆う長めのぱっつん前髪、そしてその奥から覗く切れ長で黒目がちの眼は目前に居るはず律子など、まるで眼中に無い、という感じでまっすぐに何も無い空間を見ていた。いや、睨んでいた。


安藤サヨコは全身から亡霊とか死神とかみたいな、とにかくただならぬ黒いオーラを発生させながら凛とした顔でそう呟くと、何の躊躇も無く教室内に入ろうと向かってきた。
そしてちょうどドアの前に突っ立って、突然の安藤の出現に驚く律子の方へカツカツと近づいてきた。

しかし、安藤サヨコはそんな律子の存在など、まるで眼中に無し、という眼を揺るがす事も無く、ただただ何も無い空間を見つめながらまっすぐに向かってきた。

そんな安藤サヨコを避けようとして、律子は即座に身を退いたが・・・、肩がぶつかってしまった。


連鎖的に全身が強張り、臨戦態勢に入る。

一応恋仲として、付き合っている(らしい)上田と自分以外の人間、いや、むしろ全存在に対して全く興味がありません、という感じの安藤サヨコであったが、律子は自分のロッカーや靴箱や机の中に、何かの黒魔術の魔方陣的なものを描いた気味の悪い紙や、針やカッターの刃を入れて走り去る安藤サヨコを何度か目撃した事があった。


安藤サヨコの様に、一見、自発的に他者へ作用は勿論、ましてや危害などは加えなさそうに思える人間にでも、そんな風に虐げられてしまう・・・。

律子はそんな自分が本当に果てしなく絶望的に「ドボン」な存在なのだなと、最初のうちの何度かは途方にくれ、改めて打ちのめされたりもした。


無論、今は慣れてしまい、全く問題無い、と思えるようになっているのだが。


そう、単純に「処理」すればいいのだから、何もかも。


・・・入室直前、律子と肩がぶつかった安藤サヨコは、それまで一切眼中にも意識の中にも、いや、むしろ彼女の世界の中に微塵すらも存在していなかったはずの律子を振り返った。


「汚い目で見ないでいただけるかしら」


安藤サヨコは冷め切った口調で鋭利な刃物みたいにすぱっとそう言い切ると、地獄の底から這い上がってきた魔女みたいな殺伐とした目線で律子を一瞬睨みつけ、蛇に睨まれた蛙の如く緊張し、俯いた律子をかすかに鼻で笑いながらガラリと戸を開け、たったと教室に入っていった。


・・・少し間を置いて律子も、異様に重苦しい空気の漂う教室におずおずと入った。

もう既に着席していた安藤サヨコは顎の下で手を組み微動だにせず、虚ろな目で前に座っている生徒の背中をじっと眺めていた。


他の生徒は未だに片桐アサミの死の知らせを受け入れる事が出来ていないらしく、ざわついたり、すすり泣いたりしていた。栗田シズカはと言えば、もう完璧に意気消沈してしまっていて、机に突っ伏したまま全身を嗚咽と共に震わせている。


「・・・あ、安藤、あのな、ちょっと伝えなきゃならん事があってな・・・」


こんな最悪のムードが漂うHRのさ中に遅刻し、突然堂々と入ってきた安藤サヨコを咎める余裕も無く、神田が改めて片桐アサミの訃報を説明しようと重たい口を開く。しかし、

「・・・廊下で全部、聞いてました・・・」

神田を遮るみたいに、安藤がいつにも増して虚ろで暗い調子ですぱりと答えた。

それを聞き、「そうか・・・」と神田が絶句すると、それをきっかけにして改めて残酷な事実を噛みしめてしまったのだろか、栗田シズカがそんなやりとりに感電したみたいに突然また声をあげて激しく泣き始めた。


・・・律子が教室内に入ってきた事には誰も気がつかなかった。


というか、誰もかれも、やはり律子の存在など認識すらしていないのだった。


そろりそろりと移動しながら、律子は久しぶりに倒壊していない自分の席に座った。

朝の登校時間やHR時、教室内に生徒が居る状態で、律子の座席はひっくり返されたり、中身もろとも散々と破壊されていたりするのがほぼ通例で、無事に「座席」としてそこに在る事なんてあり得なかったので、そんな自分の「座席」としての形を保っている座席に結構驚いたが、そっと物音をたてない様に着席するとなんとも言えない気持ち、もっともこういう状況ではかなり不謹慎な事なのだが、えらく場違いな安堵の気持ちが沸いた。

・・・そっか、もう居ないんだ。片桐アサミは・・・。


まだ戸惑ってはいたが、律子の心は安堵感に覆われつつあった。


・・・片桐アサミはもう居ない。

そう、このクラス内で先頭をきって自分を攻撃し続けてきていたあの恐ろしい片桐アサミ、律子にとって、とてもおぞましい脅威であった片桐アサミはもう居ないのだ。


・・・あの・・・憎い片桐アサミはもう・・・居ない、消えた、運悪く事故って死んじゃった・・・。

・・・そして律子はそれを亡霊の仕業だと思った。

本当につい最近まで「本当だったらいいのにな」と思っていた噂の亡霊の呪い。

もし本当に亡霊の呪いが現実になれば、まず間違いなく絶望的に「ドボン」な自分に降りかかってくるのだろう、そして自分は呆気なく呪い殺され、この世や、様々なしがらみや苦しみや寂しさ、憎しみ、嘆き、絶望、孤独、悲しみ・・・そんな嫌な諸々ともオサラバできるだろう、そう思っていたのだ。


・・・しかし、律子の予測を外し、消えたのは片桐アサミだった。


・・・そして、律子は不謹慎にも安堵していた。

むしろ、原因と思しき噂の「3年F組の亡霊」に感謝さえしていた。

・・・もう、座席が倒壊する事や、ゴミやボールや色々な物を投げつけられたり、髪の毛や制服を燃やされたり、甲高い声で罵倒されまくったり、運動靴で蹴り上げられたり、清掃や雑務や猫の死体の処分なんかを押し付けられる事もない・・・。

もっとも、ほんの氷山の一片に過ぎないのではあるが、少なくともそんな諸々の所業に於いて、高い攻撃力と頻度を誇っていた片桐アサミからのそんな恐ろしい攻撃に苛まれ、心を塞き止めながらその様な惨状を「処理」しなければならない事に見舞われる事は、とりあえず永遠に無くなったのだ。


・・・一時間目の開始を告げるチャイムが鳴った。

なんとも明るくすがすがしい音色だった。

教室内は未だ重苦しい空気が垂れ込め、栗田シズカのそれをはじめとする数人のすすり泣く声や、ざわつきが止まないままだった。


「・・・あ・・・じゃあ、俺はこれから片桐の家に行ってくるから、帰りまでにはまた詳しい事を伝えに戻るから、とにかく落ち着いて行動するように・・・」

チャイムに気づいた神田はうろたえながらも、とりあえずこの場の収束を図ろうとするように全員に向けて冷静めにそう言うと、教卓の上の名簿やチョークの箱を纏め始めた。

しかしその時、せきをきった様にして栗田シズカがガタンと音をたてて立ち上がった。


「・・・う、ううっ・・・私も、行きますっ・・・行かせてっ・・・・・。・・・ア、アサミィっっ・・・!!」


泣き腫らした顔面を神田に向けながらそう言い放った栗田シズカは、言い終わるや否やまたも泣き崩れ、なんと失神した。


「シズカっ!!」


井川マキが顔面蒼白ですぐさま駆け寄る。


小島ミツコ、吉川カナもそれに続く。

他の生徒達もそれをかわきりにまた一斉にどよめき始めた。

場は収束どころか更に荒れていった。


ある者は嘆き、すすり泣き、ある者は俯いて舌打ちをし、ある者は呆然と全く以て遠くの世界になんとなく在ったはずの「死」いう事実に直面し硬直し、ある者は神妙な面持ちで一点を見つめ固まり、ある者は空を仰いだままフリーズし、ある者は落ち着きを失い、怯えた様な表情で辺りを見回し・・・そして、ある者は・・・・・―――


―――「・・・ねえ、これって・・・、マジで・・・?」

「・・・呪い・・・?」

「・・・馬鹿!そんなのありえないって・・・!」

「で、でもさあ・・・死んじゃったんだよ・・・?ねえ・・・、ここさ、うちらのクラスってさ・・・―――


――――3年F組じゃん・・・?」――――・・・。

・・・かの噂の亡霊の話をささやき始めている者が数人居た。

律子は何処かの席で囁かれているそんなやりとりを小耳に挟みながら、窓の外を見た。

よく晴れたすがすがしいチャイムの音の余韻がまだ残っている。

そして、それに呼応しているみたいに美しく澄んだ青空と昇り行く陽は惜しげもなく校庭を隅々まで照らし出し、一面を囲み生い茂る木々の緑を煽り、更に深い色合いに燃やしていく様だった。

何も思う事は無かった。

ただただ、安堵とすがすがしさが心を満たしていた。

久しぶりの心地よさに少し酔った。

・・・これで、ひとつが消えた。


忌まわしい脅威のひとつ、怖いもの、嫌なものがひとつが消えた。

律子は外を眺めながら、空気の間に滲み出てくるうららかな新緑の空気を全身で受け、誰にも感づかれない様にひっそりと口の端を緩ませていた。


律子は倒壊させられていない机を改めて確かめる様に撫でながら、きっとつかの間ではあるのだろうが久しぶりに訪れた風通しの良い感情、不謹慎なのは重々承知であったし、何処か歪んんでいるのだろうが、とにかく久々に得られた安堵感をひしひしと噛みしめていた。

教室内に飛び交う悲鳴や、激しい雑音の様な耳障りな声や物音の行き交い等、全く耳に入ってこなくなっていた。

まるで律子を囲むそこだけが特別に切り取られた別の世界であるかのようだった。


―――――そうして安堵したのも本当につかの間だった。


さすがに大人しくなったクラスの面々達は依然として律子の存在そのものを無きモノ、存在していない、としている様なのには変わりなかったが、やはり現状が現状な為、いつもの様に毎時間毎秒律子を罵ったり、攻撃を加えてくる事も無かった。


しかし、そんなほんの1週間程度の平和な時(無論、律子にとってだけ)を経てから、ある日の昼休みに突然律子の机上に現れた、見事な手彫りの「亡霊死ね」の文字をかわきりに、またいつもの様な陰湿かつ激しい攻撃が再始動した。

栗田シズカを筆頭にした、何人かの生徒たちの仕業だった。


3―Fのクラス内では勿論、学年、学校の生徒たち全体的にもかなりの影響力のあった、今は亡き片桐アサミをトップとする女子グループ、栗田シズカ、井川マキ、小島ミツコ、吉川カナの4人に、片桐アサミの訃報が明らかになったあのHRの朝、亡霊話を囁いていた数人の女子達がどうやら要らぬ事を吹き込んだらしい。


気がつくと律子は

「不幸の犯人、呪いの亡霊」

・・・というなんとも無茶苦茶な濡れ衣扱いになり、またもや酷い攻撃を受け始めるハメになってしまった。


アテつけにしちゃあいくらなんでも無理があると思ったが、そんな事はきっと知ったこっちゃあないのだろう。

親友が事故死した後に、その悲しみとかやりきれなさの矛先までもが私に向くの?

そう思ったが、まあ、多分知ったこっちゃないのだろう。

ほのかな疑問符がいくつか頭をかすめたが、虚しくなるのはわかりきっているのですぐにそんな意識もろともオフにした。

まっとうな理由や原因を取り付けるには限界がある。

今までずっとそんな訳の分からない無茶苦茶な理由や、むしろそんなものすらも無いであろう攻撃を受けてきた。

「いじめられっ子」に才能が必要なのなら、自分は天才だろう。

オフにした意識の最後でそう思った。

激しくそう思えた。

・・・律子の机はまた倒壊を繰り返し始めた。

数学のテスト中に髪の毛がまた燃えた。
上履きが既に16足目になっていた。
ぶっちゃけPTA用のスリッパで校内を闊歩して何かと突っ込まれる方が面倒だったから大人しく新調したのだ。

ほぼ毎日の様に「亡霊!死ね!」の文言がしたためてある紙切れが机や靴箱の中から発掘された。
もちろん着替えの際はトイレで、通常の当番の割り振り等は一切関係なく、一番しんどい教室の清掃とトイレ掃除とをやらされた。毎日の様に。

もし抵抗すれば怪我をするのはとうに学習済みであった。
だから抵抗なんてしなかった。
特別に反応もしなかった。


ただ、襲い来る全てを、降りかかる全てを淡々とこなした。

「処理」していくのみだった。


しかし、それでも毎回の様に水をかけられた。


相変わらずクラスの全員は愚か、担任や学年全体にも、他の担当教師にも無視され続けた。

律子は何も言わなかった。

いつもの事、自分にとってのいつもの日々がまた戻っただけだと思った。


慣れているから平気だと思った。


「処理」する、という単純かつ血の通わない行動だけで何もかも片付くと、これからもそうして片付けていこうと思っていた。

とうの昔にそう腹をくくっていたのだ。


色々な事が起こる度、攻撃を受ける度、不条理な事をされる度、嫌な事、怖い事が起こるたび、それに伴って心の中に微妙に湧き立ち始める忌まわしい感情や、目を背けたくなる様なおぞましい感情、認めたくないくらい醜い衝動は、心の中、受け止めざるを得なくなるくらいに実体化し、どこまでも虚しい比重を発生させてしまう前に封じ込めるのだ。

そうしなければ、のまれてしまいそうで、自分が自分で無くなってしまいそうで、見失ってしまうと思った。

もし、そうなったら一体何を信じて、何を支柱にして此処に居ればいいのか、生きていればいいのかわからなくて、想像もできなくて、怖かったのだ。

・・・・・何の問題もなかった。


そんな恐ろしい事に苛まれるくらいなら、心を塞き止めても、封じても、ただ「処理」していく事の方がマシだった。
楽だった。

向き合いたくなんてなかった。

ずっとずっと、そうして生きていけると思ったし、自分にはそれしか無いのだと思っていた。


――――ある日の放課後、音楽室にて律子は首を絞められていた。

一体何をやらかしたのだろう、いや、そうであっても無くても関係ないのだろうが、とにかく何らかの原因でテンションが激上がりしたらしき栗田シズカを筆頭にした井川マキ、小島ミツコ、吉川カナの一陣にサンドバック攻撃に遭い、しまいに「あの世に帰れよ」とかなんとか言われながら、本当にあの世送りにされそうになってしまったのだった。

いつもなら音楽室は吹奏楽部が部活で使用しているのだが、今日に限って大会の練習の為、別の場所に遠征してしまっていた。
それで無くとも音楽室は3階建ての校舎の3階の一番端っこにあり、音楽室や吹奏楽部の部室に用事でも無い限り廊下はほとんど誰も通らない。


―――キャハハハハ!死―ね!死―ね!しーね!しーね!!


まるで新しいおもちゃを得た幼い子供の様に無邪気で、残酷であった・・・。


シズカ達はまるで何か、パーティのゲームであるかの様にして、音楽室に追い詰めた律子を部屋中追い掛け回しては捕まえ、引きずり回し、蹴りあい、繰り返し、不意に律子がかすかに逃げようとするそぶりを見せる度にえげつない言葉で罵り、ますます攻撃を激化させていった。


もちろんこんな事は始めてではなかったが、久しぶりにかすかな命の危険を感じた律子は、無意識にシズカ達の攻撃の隙を見てヨロヨロと立ち上がり、入り口に向かって駆け出そうとした。

しかし、案の定捕まった。

そんなささやかな一瞬の抵抗を見せた律子に、機敏に反応した井川マキが律子の行く手にするりと先回りし、容易く律子の後ろ髪を掴むと、教卓の横にあるグランドピアノ目掛けて乱暴に突き飛ばした。


蓋が開いたままになっていたグランドピアノの鍵盤は律子の衝突に激しく耳障りな和音をたてた。

律子はグランドピアノのちょうど角の部分に強く額をぶつけてしまい、軽い脳震盪を起こしながらそのままずるりともたれかかった。


いよいよ濡れ雑巾とかになった気分だった。


すると間髪入れずに栗田シズカが飛び掛ってきて、そのまま首を絞められたのだった。


―――「帰れ!帰れ!帰れ!カエレ!!・・・」


「あの世に帰れよ!亡霊!」


・・・井川マキや小島ミツコに鍵盤の上に頭を押さえつけられながら、朦朧とした意識に陥る律子の細い首を、栗田シズカが両手で面白いようにぎりぎりと握り締めていく。

徐々に途切れそうになっていく意識がチカチカと点滅を始め、不吉な熱がゆっくりと頭から全身を覆いつくそうとし始めた。

―――・・・し・・・、死ぬ・・・・・。


―――その時だった。


もうすぐにでも消え失せていきそうな意識が吉川カナの素っ頓狂な声に反応した。

「・・・な、何見てんのよ!?」


その声をきっかけに首を絞めていた栗田シズカの手や、身体を拘束していた井川マキや小島ミツコの手が一気に律子を離した。


急に血流と酸素のめぐりが良くなった身体に驚いたのか、足の神経の稼動が間に合わなかったらしく、律子はそのままその場に崩れ落ちてぺたんと座り込んだ。

まだ脳天がぐらついていたので鮮明では無かったが、律子は点滅が残る荒れた前髪の間の視界にふらっと立っている、上田イツキの姿をとらえた。


吉川カナがなんともバツが悪そうに後ずさりながらもまだ吠えている。


「何よっ!上田っ、何か用っ!?」


上田はそんな暑苦しい吉川カナの絡みようなど全く気にとめる様子もなく、細くて薄い長身の身体を若干猫背に丸めながら、ストレートパーマのかかった真っ直ぐな黒髪を簾みたいに揺らして、ほぼ半分だけしか見えない色素の薄い顔の奥でぼそりと

「・・・いや、別に」

と言った。


―――「あーあっ!なーんかシラけたし。・・・ざけんなよ、涌井っ!マジ死ねっつーの!」

栗田シズカはそう言うと、なんとも言えない面倒くさい展開に転がってしまったその場をちゃっちゃと放棄し、これみよがしに捨て台詞を吐きながらスタスタと音楽室から出て行った。

あまりに呆気無いそんな現場の冷却具合に井川マキ、小島ミツコも少し戸惑いながら新たなリーダー(なのであろう)、栗田シズカの後を追う。

何かまだ溜まっている色々をぶちまけきれていなかったのか、吉川カナは一陣の最後尾を追いかけながらへたり込んでいる律子を振り向くと
「消えろよ亡霊」
と捨て台詞を吐き、依然として音楽室の入り口で棒立ちしている上田イツキの薄い身体に故意にぶつかりながら出て行った。


・・・・・今度は何をされるんだろう・・・。

―――予想外の登場である、ろくに話したこともない上田イツキと二人きりになってしまい、律子は俯いたままその姿をチラチラと見ながら、改めて全身を強張らせた。


話したことも接触したこともない、むしろ上田イツキが律子の存在自体知らないのではないか、というくらい同じクラスではありながらも接点はまるで無く、(大体イジメがらみでなければ、どうしても、という用事が無い限り上田イツキはもとより、ほぼ誰ともマトモに接触する事なんてなかった)辛うじて安藤サヨコと恋仲であるという噂を知っているくらいの存在であった。


当然、特にこれといって攻撃を受けた事もなかった。

やはり存在自体を了解されていない可能性が高い。


でも、だからこそ怖いものがあった。

知らないなら知らないままでいたいのだ。

接触するほとんどの人間に疎ましく思われたり、罵声をあびせられたり、攻撃を受けたりするハメになってしまう自分だから、こうして上田イツキとの初の1対1の接触によって、また新たなる脅威や恐怖、上田イツキから自分に向けられるそれらを知ってしまうのではないか、そして同時になんとも言えない、こう、どろっとした嫌なもの、醜くておぞましい感情がまた自分の中に沸いてきてしまう様な気がしたのだ。

嫌だな、怖いな、と思った。

そして、それらのものを「処理」するパワーもまた新たに生み出さなくてはならない。

慣れてはいるはずだが、そうであってもやはりしんどいものはしんどい。

辛いものは辛い。

嫌なものは・・・、嫌だ。

しかし、律子のそんな戦慄きに反して上田イツキは、栗田シズカ達がまだ何かぎゃあぎゃあと喚きながら遠ざかるのをぼうっと見やるとすぐにこちらに向き直り、つかつかと律子に向かって入室してきた。


律子は一気に緊張した。

瞬時に顔を下に向け、荒れ放題になった髪で頭や顔全体を覆った。

――――ポーーーン・・・。


・・・??

・・・頭上でピアノの音がした。


律子が音のした方へそうっと少しずつ目を向けると、すぐ隣に上田イツキが立っていた。

びくっとして、肩をすくませた。


上田イツキは何か特別に愛しいものでも撫でるかの様にして、細くて節の目立つ指で鍵盤を押していた。
垂れ下がった真っ直ぐな黒髪の間から見える片目が、慈しむ様な潤いで以て鍵盤を眺めているのがわかった。

その標的が明らかに自分ではない事にひとまず安堵し、眼中に無いうちにこの場を離れようと律子はそろりそろりと這う様にして入り口に向けて動き出した。


・・・また攻撃を受ける前に、何らかの作用を受ける前に、余計な事を知る前に、何も無かった、何も思わない、何も知らないままでこの場を離れたかった。

そろそろと這い出ていこうとする律子の存在を、一体どの辺のアンテナでとらえていたのか、上田イツキは入り口の戸に手を掛け、立ち上がろうとする律子を特に振り返らないままで、またぼそりと呟いた。


「・・・どの辺に当ったの?」

「・・・は?」


しまった。

と、思った。

「・・・は?」・・・思わず声が出てしまった。


なんとも不恰好に、立ち上がり途中の律子は、中腰のまま顔半分をゆっくりと上田イツキの背中へと振り向かせた。


上田イツキは指で鍵盤を押さえたまま、律子の方に向き直っていた。


改めて上田イツキの全体を見た。
そして、一瞬だが目まであってしまった為、反射的に律子はまたびくっと縮みあがった。


しかし、簾の様に垂れ下がり、顔面の半分を隠す真っ直ぐな黒髪の間から見える上田の片目は、律子が常々他者のそれから察知してきた様な、敵意、嘲り、罵り、疎ましさ、怒り、不快・・・などという忌まわしく、嫌悪感に満ちた印象は微塵も感じられず、まるで何の変哲もない地味なビー玉みたいに単純な艶やかさと、抑揚の無い冷たい落ち着きとを放っていた。


何も映さない新月の晩の湖面の様な、不動の無機質さのみで成り立っている潤いが静かにその目を覆っていた。

・・・さすが、あの安藤サヨコの彼氏(なんだっけ)なだけはある。

―――「ねえ、どの辺?」


律子は最初、質問の意味が全く理解できなかった。

それに人と、ましてや3-Fのクラスメイトとこんなにマトモに(律子にとってはこんなコミュニケーションでもかなりマトモなのだ)対峙する事なんて無かったので、律子はその場で術にかかったみたいに固まってしまった。

・・・一人きりで「処理」する事には慣れていたが、誰かとこうして対峙したり、マトモにやりとりを交わす事にはほとんど免疫が無かったのだ。


そうして固まり、黙ったままの律子の反応をしばらくは待っていた上田イツキだったが、全く以て何も答えるそぶりを見せない律子に程なくして諦めた様で、小さくため息をつきながら触れていたグランドピアノに軽く寄りかかり、ふうっと俯いた。

・・・やばい、逃げなきゃ。今度こそなんかあるかも・・・。

上田イツキのそんな反応に脱力感や微々たる苛立ちがこもっている気がして、律子は反射的に思った。

問いかけにすらマトモに答えられない自分にため息混じりに俯く・・・、きっとすぐに顔面全体を覆う漆黒の黒髪の間から、そんな鈍くさい自分に対する蔑みや罵りの言葉や、忌まわしい敵へ向けられる嫌悪感に満ちた視線が飛んでくる気がした。

はたまた譜面台の上に置きっぱなしにしてあるタクトを投げつけられるかもしれない・・・。


――――・・・!!?


――――黄色い布がはたりと胸に当たって足元に落ちた。

今日のところはまだ無事に役目をこなせている16足目の上履きのつま先の上に落ちたそれを見ていた。

布はフエルトの様になめらかな感じで、端っこにはYAMAHOという大手楽器メーカーのロゴが斜めに印字されていた。

おそらく楽器を磨いたりする為のウエスなのだろう。


―――「・・・それ、まだ綺麗だから、あげるよ。」

上田イツキの声に顔を向けると、上田はグランドピアノに寄りかかったまま、先ほどまで鍵盤を愛でる様に押さえていた左手の指でその角の辺りを撫でていた。


その指先にはうっすらと血が付いていた。

律子の血だった。

強く打ったな、とは思ったが、思いのほかがっつりと怪我をしていたらしく、よくよくその辺りに触れてみたら額のその部位にべっとりと血が付いていた。

全然気がつかなかった。

慣れって色んな意味で怖いものだ。
これには特に驚きや戸惑いはなかった。

このくらいの事ならいつもの様になんとも思わずにいられた。

「処理」できる。

しかし、律子には最初、上田が投げてよこしたウエスの意味がわからなかった。

そっちの方に戸惑ってしまった。

足元に落ちたまだ新品と思しきウエスは、目が痛くなりそうなくらいに美しい黄色であった、常々ボロ雑巾やらゴミくずやら、使用済みの汗拭きシートなんかを常々投げつけられている律子はそんな綺麗なものをよこされてもどうしていいか判らなかった。


「頭、血でてるよ。拭きなよ。」


ためらい俯く律子に上田イツキは「あ、鼻毛出てるよ」とでも言わんばかりのライトテイストな口調子で付け加えると、色素も厚みも薄い身体を床の上に滑らせるようにして、すーっと入り口付近で突っ立ったままの律子に近づいて来た。


長身にしては身体が軽いからなのか、上田イツキはほとんど足音をさせないまま、なめらかに近づいてきて律子の目前で立ち止まると、特にこれといって何か考えていそうな間を置くでもなく、ひょいとウエスを拾い上げ、おもむろに血を噴いている律子の額に当てた。


急に上から覆いかぶさる様にして顔面の上半分にあてがわれた黄色い布に一瞬のけぞった。
鼻先で真新しい布から発せられる特有の匂い、糊の匂いがかすかにした。


そうして目前に立ち、律子の額にそれをあてがう上田から、律子は大抵、いつもいつも自分に向けて外部の存在から発せられるもの、敵意、嫌悪感、蔑み、排除的な空気などの、ネガティブかつ脅威で恐怖な感じが全く感じられない事に気づいた。


異例だった。


上田イツキが律子に対して発する空気には微塵もそういうトゲトゲした恐るべき空気がなかったのだ。


無論、だからといって特別に好意的な感じや、慈しみ愛でる様な感じ、興味や親しみの様な心地よい温度のある空気を放っている訳でもなかったが、律子にとって他人と接触する時に、上田イツキから感じた様な、拍子抜けしてしまうくらい何の起伏も触感も無い空気を感じる事はほぼなかったので、何だか・・・されるがまま硬直してしまった。


・・・「処理」するものが・・・無い・・・。


いつもの様に、他人と接触する際にそうしなければならなくなる様なものが無かった。


そうする事無しで普通に接する事だってきっと出来るはずなのだが、今はその手はず無しで誰かに触れる事に相当の違和感があった。


攻撃でもない、無視でもない、嫌悪でもない、でも好意でもない、・・・。


ここ数年間の間、こうして近距離で接触してきた人間の中で、そんな人間はほぼ居なかった。

こんなにも自分という存在に対して、勿論、好意的では無いが、何のネガティブな作用も思惑も無い、何の意図も輪郭も無い、「ただそこに居るだけ」という風な人間は初めてではないかとさえ思った。

そしてまた、そんな上田イツキもおそらく無意識ではあるにせよ、律子の存在を「ただそこに居るだけ」という感じの、極めてフラットな具合に認めてくれている気がした。

・・・律子を取り巻く外部、人々を座標にして表すと、律子を0地点にしてそれらの人々は方々に様々な色でしっかりと点を築き、散らばっている。

そしてどういう訳か、それらの人々はそれぞれの座標地点からそれぞれ、マイナスの力を律子に向け、律子に対し、あからさまな攻撃やら、はたまた0地点に居るはずの律子の存在を露骨に否定する様な作用で以て、どんどん律子を0地点に封じ込める。

そして、どんな誰の座標に於いても、0地点に存在するその誰か以外にとっては絶対不可侵領域、最低限存在が許されているはずである0地点、そこに縮こまる律子ですら消してしまう勢いで迫ってくる。


しかし、上田イツキはその座標の何処にも居ない、律子はそんな気がした。

是でも非でも無い外部に対する空気、遠のくでも近寄るでもない距離、居るのに居ないような不思議な感じであった。

「・・・ここ使うから、閉めていい?はい。」


律子の頭上で上田は黒い口ピアス貫かれている薄い唇を小さく動かしながら機械的に淡々とそう言うと、律子の手にウエスを半ば強引めに渡し、すぐに背を向け、ぴしゃりと戸を閉めてしまった。


あれよあれよという間に締め出されてしまった律子は、しばらくウエスを握りながら、ぼんやりとその場を動けぬままでいた。


程なくして室内から激しくも美しいピアノの音色が聞こえてきた。


律子は音楽の事はよくわからないのだが、それは中学生の男子が如何にも興味を示さないであろうバリバリのクラシックピアノであった。

ベートーベンとか、ショパンとか、モーツァルトとか・・・なんかそんな感じだ。とってもノーブルな感じだった。

しかしながら、その音色は上田イツキが先ほどまで律子の目前で発していた、あの妙に無機質で温度感の無い空気からは想像もつかない様な、激しく、抑揚も充分で、丹念に熟練された歴史を感じる、まるでちゃんと体温を持っている、意思や愛情を示している生き物の様な印象、もっと言えば猛々しい獣の様な印象があった。


あの薄っぺらくて、しかも何の感慨も空気の重さも無い様な上田イツキの一体どの辺に、そんな熱っぽい震源地があるのだろう。

律子は軽い脳震盪の余波のせいか、またはいつもと違う特異な他人と接した事による微妙な調子崩れのせいか、ぼんやりとした頭の隅でそんな事を思った。


律子は何の作用も、攻撃も、恐怖感も、受けなかった。


まるでほんの少しの感触だけを残しながら、ただ肌をかすめていくだけの風みたいだと思った。


――――――数日後、また同じような事になった。

今度は律子自ら音楽室に向かっていた。


栗田シズカ率いる一群に中庭の隅で軽いリンチに遭うさ中、隙を見てその現場から逃げ出した律子は、激しい罵倒の声といつの間に一体どこから調達してきたのか、木工用のハンマーで以て威嚇しながら意味不明の驚嘆の声をあげながら追いかけてくる栗田シズカ達から逃げ惑ううちに、気がつくと音楽室に向かってきていたのだ。


逃げ込むのにこんな場所になんて・・・3階の端っこ、まるで袋小路の様に逃げ場も人気も無いこんな場所になんて絶対不利なはずだ。

しかも今日も吹奏楽部の部員達が不在な事をちゃんと知っていたはずだった。


しかし、律子は気がつくとそこに来ていた。

ぴっちりと閉められた音楽室の戸の向こうから、激しく叩き弾かれているショパンの幻想即興曲が聞こえていた。


Posted by 蓉 on 5月 15, 2009 | | コメント (8) | トラックバック (0)

2009/05/02

~片羽の影~3年F組迷走少女④~アサミ篇

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――――――薄い汗の匂い、ほのかなスプレーの匂い、そして女子特有の甘ったるくてまったりとした匂いが混ざり合って充満している。
体育の授業の後、男子は廊下や空き教室などを使って、女子は自分たちの教室を利用して着替えをするのだ。


6時間目の体育の後、残るは帰りのHRと清掃だけという事もあってか、F組の女子達は外の廊下で男子達が締め出されたまま待ちぼうけているのを少しも気にかけずに、いつも以上にだらだらと無駄に喋りながら着替えをし、思い思いにそれぞれ放課後の準備を整えていた。

―――「シズカぁ~、汗シート持ってなーい?」


片桐アサミがよく通る声をはりあげた。

元々短いスカートのウエスト部分を更に折り曲げて短くしながら、首だけを栗田シズカに向ける。


「んー?あー、あるよ~!使う?」


アサミと同じグループ、言わば「仲良しグループ」ってモノに属している一人である栗田シズカは気前よく返事をすると、汗拭き用のウェットシートの入ったパックを丸ごとアサミに投げてよこした。


「さーんくすっ!」


アサミはにんまりと笑いながらそれをナイスキャッチすると、まだほとんどのボタンが開いたままなだらしなく開いているワイシャツの胸元からシートをつまんだ手を入れて脇の下や鎖骨の上を丹念に拭いた。


「ぎえっ、なんか茶色い・・・」


肌の上をものの2、3往復しかさせていないのにも関わらず、シートが驚くほど校庭の砂の色に染まっていたのを見てアサミは思わず声をあげた。

晴天の午後、春とは言え、そんな中で元気にバレーボールなんかしたら結構汗をかくもので、加えてあまりの天気の良さにカラカラに乾ききった砂がそんなべっとりとした肌に知らず知らずのうちにまんべんなく降り注いでいたのだった。


「うわあ、茶色ぉっ!まみれてんねえ~」


着替えを終えたシズカが絡んできた。
すかさずアサミは答える。


「やばくね?この色!マジ最悪っ、ってか全身気持ち悪いし、あー!」

シズカとはいつもこんな感じ、最高な一番の仲良し、打てば響く様な仲なのだった。

意味不明の感嘆符をあげながら教室の隅にある机めがけて砂埃と汗まみれになったシートを投げつけた。


「ちょっと~!ちゃんとゴミ箱に捨てなってェ~!オンナノコでしょおっ!!」


その様子を見ていたシズカが「待ってましたっ!」と言わんばかりに大げさに笑った。

・・・さすがシズカ、アサミは思った。同時にホッとする。


共犯者というか・・・、とにかくなんとなく強力な仲間を得て更に無敵になった様な気がしてテンションが上がる。

「どーせこのあと掃除じゃん?っていうかゴミ箱みたいなモンだし、あすこは!ヤツは!」


いつの間にかアサミの周りに集まって来ていたいつもの仲良しグループの面々、マキ、カナ、ミツコも一斉に笑い出した。


「言えてる~!」


「ハゲドー!」


・・・思い思いの賛同の声でにわかに自分たちの結束を再確認する様に、アサミ達は砂埃と汗まみれになったゴミシートの標的である机の主をふざけあいながら罵った。

主は教室には居なかった。主は体育の後の着替えはトイレでするのが通例となっている。

「・・・ほんっと、腹立つわー・・・」


もう既に別の話題へと切り替わった面々がぎゃあぎゃあとガールズトークを炸裂させる中でアサミは低い声でうなる様に呟いた。


―――アサミとシズカ、マキ、カナ、ミツコ・・・総勢5名の最強(と、思われる)女子グループ達はHRが終わるや否やゴミ箱同然と罵った机の主に清掃業務を押し付けて直帰し、それぞれ着替えて、再集合した。


場所は駅前に新しく出来たばかりのピカピカのカラオケ店。
別に歌うという目的ではなかった。

単なる暇つぶし、そして彼女達のザ・アフタースクールライフに向けての戦闘準備をするという目的。


「どーせ暇じゃんっ!?」


アサミの一声と、間髪入れずのナイスタイミングなシズカのふっかけで満場一致で皆集まった。


―――まだ真新しいカラオケボックスの一室。


アサミ達はそれぞれにホットアイロンや、ウィッグ、アイプチ、メイク道具、アクセサリーやマニキュアやらの「化けグッズ」を卓上に広げて戦闘準備、お色直しに取り掛かる。


今日はこの後、男の先輩にイベントに招待されているのだ。


露出度の高いクラブ系のブランドの服でギラギラとキメ込んだ面々は乙女の戦闘準備中と言えども器用であり、手も口も止まらないままだった。

特に意味は無いが何故か安心するくだらない会話がだらだらとカラオケの個室の薄暗く狭い空間を埋める。


カラーリングを繰り返し、すこぶる水分含有率の低いパサついたアサミの髪はみるみるうちに熱したアイロンによってウェーブ形に捻じ曲げられていく。
アサミは念入りに、いや、くどいくらいに時間を潰しながら仲間たちとのおしゃべりを繋げ、器用にそして丹念に髪をスタイリングし、メイクを強化していった。


アサミは特に意味を持たない、そんな時間が好きだった。

同じ匂いのする仲間達と過ごす、しかし何の意味も無いだらだらとした時間。

いや、好き・・・というより、マシだったのかもしれない。

家に居るよりは。
一人、居るよりは。

―――乙女の戦闘準備はこれでもかと念入りに成されたのだが、それでもイベント開始の時間まで1時間半ほど余ってしまった。
丹念なそれを一通り終え、会話や大体の情報交換もそこそこ終えてしまったアサミ達はやる事を失い、一瞬なんとなく静まった。

そして皆バラバラと携帯をいじったり菓子を食べたり寝転がったりして、結束を失いかけた。

無意識に共有していた意味の無い心地よい時間までもがバラバラと消え失せそうになる。

しかしアサミの


「酒でもひっかけてこーよ!」


の一声で再び沸いた。


勿論、シズカが続く。


「出た!アサミの偽造パスポートっ!」


「ここ、いけるかなあ?」

ポッキーを咥えたミツコが訝しげに加わる。

偽造パスポート、とはアサミが独自の製法で作成した嘘っぱちの身分証明書の事だ。


未成年のアサミ達は言うまでも無く飲酒などご法度なのだが、皆、比較的大人びているし、しかも厚化粧+私服(セクシー系)の彼女達はハタから見ればそれなりに成人に見えるのだった。(少なくともアサミはそう思っていた)


そうであるから飲食店にて酒を注文してもあまり違和感は無いのだった。(まあ、ローカルエリアならでは、なのだろうが)


・・・しかし、もしもその上で、身分証明を強いられたら・・・。


そんな時にアサミの作成した偽造パスポートは大活躍した。

この面子で今までにも何度か飲食店やカラオケやコンビニでご法度の度に使用した事があるが、悪運強く、一度もバレた事は無かった。

さすがアタシ。

・・・内心でアサミは改めて自画自賛した。


そして確信する。


・・・アタシは思うがまま、自由にしたいようにする。


自分に嘘なんてつかない、我慢もしない。

自由に、好きな風に生きる。

誰でもない、アタシの力で。

アタシだけの力で・・・アタシはイケるんだ。

楽しく、自由に・・・そして強く、誰よりも。


こうして心地良い仲間と一緒に、思うがままに。

アサミはその為になら何でもしていこうと思っていた。

そうして同じ熱を発しながら寄り添い笑い、思うままの最高に心地のいい空間の中、一緒に居られるなら。

大好きな自分のカタチを維持していられるならば。

そんな風に、好きに生きる・・・。
そして、そんな思いで在る自分を迎えてくれる仲間達と居られるなら、自分の思いなんてカケラすらもとらえてくれない、とらえようともしない、っていうか顔も名前すらも知らない誰かが作ったルールや規律なんて、本気でクソミソに思えた。

―――「さーすがアサミっ!」


シズカがはやしたてる様に小粋に指を鳴らしてにやっと笑い、アルコールメニューを広げる。


「なんとかなるべ~!」

寝転がっていたカナが跳ね起きる。


「やばいって~!」

ミツコがポッキーを咀嚼しながら笑いだす。


「だからダイジョブだって!」

シズカがたたみ掛ける様に言う。

「違うよお、この勢いでいったら明日学校いけねー!」

ミツコが爆笑しながら答える。


「ぎゃははは!じゃー皆でバックれよーぜ!」

マキがオチの一声で参戦してくる。

皆で、「飲酒」

というタブーを犯す共犯意識のスリルに再び覚醒&結束した面々は、アルコールメニューに群がりながらまたもくだらないガールズトークを炸裂させ始めた。

アサミは一瞬バラけかけていた心地いい空間がまた再結束して沸きたったのを見てホッとしながらすかさずその輪の中に首をつっこんだ。

そう、これ。

アタシが居たい場所、アタシが居られる場所、皆が一緒に居る場所、アタシを迎えてくれる場所・・・。

最高に楽しくて、最強のアタシの場所。


・・・そう、これだ。


―――「じゃーアタシは気付けに、ひやっ!日本酒っ!」


首をつっこんだアサミはアルコールメニューに記載されている日本酒の写真を威勢良く指差した。

「うっそお~!?」

だらしない笑い声と、共謀を誓うシズカの「アタシも付き合いまっせ~!」という間抜けな声を聞きながらアサミは甲高い声でこれでもかとはしゃいで見せた。


―――――初めて利用したピカピカのカラオケ店でのスリル満点の悪企みは問題無く成功した。


良い感じにほろ酔い状態になった5人はアルコールという中学生にしては強力なガソリンを得て更にテンションをヒートアップさせたまま、イベント会場であるライブハウスに向った。


なんとかシズカが誘導したが、一発目にひっかけた日本酒が効いたのか、思いのほか酔っ払ってしまっていた先頭をきるアサミが道を一本間違えた為、5人が会場に到着した時には既にイベントは始まっていた。


イベントは下が中学生(アサミ達が最年少だ)から大学生くらいまでの様々な若者が集っていた。

アサミ達の暮らす街の駅を中心にした一帯を活動拠点にしている若者で構成された、ヒップホップ、レゲエ、R&B等のチームが共同で開催するローカルなイベントであった。
しかし、少なくともアサミ達の様な若い面子にとっては濃厚で充分すぎる程にスリリングなイベントだった。


アサミ達を招待してくれた先輩はその中の一つのヒップホップグループに属している、アサミ達より3っつ年上のナオヤという男だった。


いつも威勢良く、時に挑発的に、ノリ良く、シズカ達との仲良しグループは愚か、クラスの統率をも執りつつあるアサミは、自分にとってガラにも無くお約束すぎる単純さ、純情さがなんとなく気恥ずかしくて、シズカにすら打ち明けていなかったが


アサミはナオヤに密かに想いを寄せていた。


本当なら誰にもナオヤを見せたくない、紹介したくなんてなかったが(惚れられたらヤだし、マジありえないし)本当なら一人で彼の勇姿を満喫したかったが・・・


だからと言って一人でイベントに参戦なんて・・・なんだか「ザ・おっかけ」みたいでカッコワルイし、大体一人だとなんとなく気後れしてちゃんと話す事すら出来そうに無い気がしたのでシズカ達を誘ったのだ。

正直、このイベントにだって、シズカ達には「招待されて~」なんて言って誘ったのだが、ナオヤにほぼ「チケットちょーだいっ!行く行くっ!」と言う感じで押しかけたのであった。

―――薄暗い、というか暗い

地響きの様な重低音、重なり合って怒号の様に響く様々な声、音、呼吸。


本格的にイベントが始まって、ますます沸きたっていく若者たちでギラギラとごったがえす圧迫感に満ち満ちた会場に、所々ぼんやりと射している青白いブラックライトを頼りにしながらアサミ達はとりあえずドリンクカウンターに向った。
しかし、カウンターの周辺には更に厚い人垣が出来ていて、とても5人で溜まれそうになかった。

「みんなっ!ビールでいいっ!?」


先頭をきって進んでいたアサミが振り返り、にやっとイタズラな笑みを浮かべながら問う。

「オッケー♪」


「さんきゅっ!」


暗闇の中、シズカを筆頭にテンポ良くノリの良い返事が返ってくる。


さすがっ。やっぱりこの面子は最高に気持ち良いっ。


そして、さすがアタシ。

やっぱり完璧、このフットワーク。最っ高にいい運びっ。

「ふふっ、まかせろっ!」


様々なモノに共鳴して高鳴る鼓動を抑えきれずにいつもより大げさにおどけながら、ノリの良い仲間達のGOサインを受け、アサミはくるりとドリンクカウンターに向かう。
細い身体をすいすいと人垣の間に滑り込ませ5人分のドリンクチケットを握り締めながら進んでいく。


「ビール5こっ!・・・あ、いや・・・」


カウンターに到着し、注文をしかけたアサミは一度下を向いて自分のつま先を見た。
先週購入して今日下ろしたばかりの新品のピンヒールのつま先がブラックライトのおぼろげな光を受けてゆらゆらと動いて見えた。


―――やべ、酔ってる・・・?・・・ダメじゃん、こんなんじゃ・・・しっかりしろっ!


「ビール、4っつ!・・・そいで、ジンジャーエール下さいっ!」


本当は慣れないクセに調子にノッてカラオケで呑んだ日本酒が確実に体内と脳みそを侵略しつつあるのがわかった。
でも自分だけオレンジジュースなんて、ノンアルコールなんて・・・なんからしくない。

・・・っていうか、シラける。ありえないし。


・・・そうは思ったものの、やはりナオヤに会う前に酔ってしまう訳にはいかないのでなんだかシャクゼンとしなかったがアサミは大事をとって一人だけジンジャーエールで誤魔化す事にした。

どうせ暗いしバレない。
ジンジャーエールなんて、暗闇での見た目はビールだ。


「・・・っオイっ!アサミっ!一人で運べなくねー!?」


突然背後の人垣から現れたシズカに不意をつかれてびっくりしたが、すぐにいつもの調子に戻す。

「やべー!アタシっ、念じれば腕5本生えてくると思ってたっ(笑)」


アサミの応答に爆笑するシズカの笑い声と共に二人は手分けして仲間達の元へドリンクを運んだ。


―――ますます息苦しくなってきた空気は、鳴り止まない重低音に共鳴するみたいにどんどん重くなり、暗いフロアに沈殿していく。
落ち着きの無い照明がそこらじゅうを右往左往し、歓声や、ぶっちゃけあんまり良く分からない音楽やらが鼓膜を激しく打ち続ける。

ステージに程近い、壁沿いに佇む背の高いテーブルを陣取って5人は改めて乾杯の声をあげた。

アサミは改めてそんな怒号の様な空間と、心地よい仲間達とが創り上げている愛すべきこの空間を噛みしめる様に想った。


・・・いつだってアタシを否定しない、こうやってアタシ達が、アタシが創り上げるこんな場所。


そう、我慢なんてしない。
アタシは最高に可愛いアタシの為ならどんな事だって出来る。する。


これらを、アタシを守ってくれるこんな場所を、そしてアタシを守る為なら、何だって出来る。
何だってしていく。


これがアタシの生き方だ。

―――アサミ達が乾杯を終えてすぐにナオヤ達のグループのパフォーマンスが始まった。

一瞬、カッと白く激しく発光したステージにわっと観客達が詰め寄る。

予想以上に人気のあるグループみたいだ。アサミ達もそれに続く。


ほとんど聞き取る事のできない歌詞が次々と弾丸の様に飛び、それを煽る様にうねる低音主体の官能的かつ攻撃的な音。


濃厚で激しく最高のライブだった。

ここに来てからは一滴もアルコールを飲んでいないのに、アサミは完璧にナオヤとナオヤ達のグループが吐き出す空間と音楽に酔ってしまっていた。


ほんの30分そこそこ程度の持ち時間の間だったが、アサミはひどく悦に入ってしまい、ナオヤ達のパフォーマンスが終わる頃には、気がつくと一体誰のものかもわからないビールのカップを片手にしていた。

しかも中身はほぼ空に近くなっていた。

シズカがそれを見て笑った。アサミもなんだか自分が求むる世界のカタチをまた新たに見つけたみたいで嬉しい気分になり、馬鹿みたいにゲラゲラと笑った。


―――最高に、楽しいっ。


シズカ、マキ、カナ、ミツコ、皆・・・みーんなアタシを受け入れてくれてる―――。


・・・今日の為に新調したピンヒール、イメージピッタリの最高にかっちょいい服、周りは全然知らないヤツばっかだけど、なんだか同じニオイがするヤツらがひしめく、息苦しくて心地良い空間・・・。

そして、今日は今からナオヤに会える・・・。

これ以上に無いくらいに完璧な時に、今に、アサミは改めて深い感動を覚える。

勿論オモテには出さない。

努めていつもの番長ちっくな最高にイケてる「アタシ」を装う。

無論、無理も我慢もしている訳じゃなかった。
それが、アサミ自身が望み、創り、維持している世界でのアサミの在り方なのだった。

途切れる事もなく辺りにばら撒かれていく笑い声・・・―――。


―――「よっすっ!酒カッくらうかあっ!アサミっ!ビールでいいっ?」


シズカが笑いをしまいこめないまま問い、ドリンクカウンターに向いつつアサミを振り返った。


アサミは「オッケー!」と言いながらガッツポーズをし、そのままその手をぐるりとひっくり返して舌を出した。
そんなアサミのDEATHサインを見てまたも爆笑したシズカが同じポーズを高々と人垣の中であげながら暗闇の蠢く中に消えていった。

最高っ・・・。
ほんっと、サイコー!


アサミは思う。


・・・体内に流動しているモノ、あー、例えば血液に・・・?

目には見えないが確かに求めていた感情が、いや、なんというか成分?が、それに乗って全身に隅々まで巡り、熱く熱く心地よく煮えたぎるみたいだ。


それらはアサミを、アサミ自身が望む最高に気持ち良い世界へと、たっぷりの完璧な保障付きで誘ってくれる気がした。
根拠なんてまったく見つからなかったけど、怖いくらいにそう感じられた。

そう、・・・怖いモノなんか、不安な事なんか無い。

アタシにはそんなモノ、絶対にありえない・・・。


結局、少しほろ酔ってはいたがアサミは本当に心底そう感じた。


そんなテンションのまま、マキやカナやミツコに絡もうとアサミは彼女達を振り返ろうとした。

しかし、その時、そんな絶頂的なアサミの耳に全く以って予想していなかったとんでもない台詞が飛び込んできた。


依然としてフロアは激しい音と歓声と、なんとも言えない濁りきった通気性の悪い空気に満ち満ちていたのだが、アサミはその声を・・・カナのそれをしかととらえた。


「・・・いーなあ~、シズカのカレ、めっちゃかっこいーしィっ!」


・・・シズカの・・・カレ・・・?


アサミは振り返りかけた身体を一瞬フリーズさせた。


・・・シズカに彼氏が居るなんて、って言うか、ここに居るの・・・?


全然そんな事聞いていなかった。そしてなんとなく妙な感じがした。

なんと言うか・・・、とにかくこの最高で最強な空間に水を注す様な、とてつもなく嫌な予感を察知した。


「・・・ちょっ、馬鹿っ!アンタっ・・・。」


マキの声だった。

アサミは振り返らず、背中でその会話を見つめ続けた。


・・・そして、全てが砕け割れ堕ちる様なカナの一言を聞いてしまった。

「え~?何がぁ?ナオヤ先輩ちょーカッコイイじゃんっ♪シズカめ~、マジいいよねェ~!」

――――・・・フロアの音が消えた。

消失した。


代わりに先ほどまで最高に問題なく心地よいと感じていたはずの音が全て、耳も心もズタズタにしてしまう様な騒音、雑音に聞こえてきた。


「ちょっと!アンタ、声デカイって!知らないのっ?それ禁句っ・・・―――」


押さえ込んでいるみたいに息まじりのマキの声が青ざめたのがわかった。


――――急に息苦しくなった。


先ほどまでは最高に悦楽的だと、快感だと、さすがだと・・・そう噛みしめていたはずの、重たく呼吸のしにくい空気が一斉に牙を剥く。
そしてそんな心地よさを一気にかき消して真っ直ぐにアサミを四方八方から責めたててきた。

・・・―――――っっ!?

―――アサミは一人ぼっちになった。


同じニオイのする心地の良いヤツらが数え切れないくらいに居る、そいで最高に気持ちよく蠢きひしめいている。
そう、最高に気持ちいい仲間達、創り上げていた世界、求めていたはずのそれらと、自分の全てはまだここに居る、存在している。
問題無い・・・。


それなのに・・・――――。


アサミはまだ酔い揺れている感覚で、でも確かに了解した。

せざるを得なかった。予想だにしていなかったその真実を。

知りたくなかった、というか絶対に在ってほしくなかった真実を了解してしまった。


・・・シズカ・・・の、カレシって・・・ナオヤ・・・!?


――――ナオヤは・・・、シズカと付き合ってる・・・んだ・・・?。

ミツコがか細い声でこちらに向って呼びかけるのを遠のき落ちゆく意識で聞いた。

「・・・ア・・・、ア・・・サミっ?!」


・・・アサミは努めていつもみたくスマートに振り返った。

そしてだらしなく大げさに笑った。

・・・そう、いつものアタシ、「アサミ」らしく。

そうしたい、そうしていたい、だってそうでなければ・・・―――。

「げっへえ~~っ!!マジサイコーじゃねっ!?」


―――マジ、サイコウ・・・。

そうだ、マジで最高なのだ。

だって、そうでなければ・・・。

・・・そうあるべきなんだ。


・・・アタシは・・・ここは、マジで・・・最高・・・。

そいで今日、この場所、空間、アンタ達・・・ぜーんぶ、マジで、最高なんだ。


そうでなければ・・・、ねえ・・・、そうじゃなきゃ・・・、そうでしょ・・・?


・・・そうであってよ・・・。


――――マキとミツコ、そしてシズカ、ナオヤはアサミのナオヤへの気持ちを暗に察知していた。

カナは、知ってか知らずか・・・ともかく鈍いのだった。そういう事に関しては。


しかし、シズカはその事実を知る以前に、既にナオヤと付き合い始めていた。
本当に何の悪気も無かった。本当にひょんな事から知り合い、関係を深めていった。


ごくごく自然にそうなったのだ。


しかし、クラスでのそれはおろか、学年的にもイケイケ系で大人っぽい&ワルっぽい風貌と佇まいで目立ちまくり、もうもはやほぼ裏番長的で、少なくともシズカ達にとってはある意味絶対的なリーダー的ポジションに君臨しているアサミに対して、マキやミツコ、無論シズカもその事実を告げられなかった。


暗黙のタブーだったのだ。

しょっちゅう風紀の担当教師はおろか、様々な教師達と衝突し、よくわからない年上の知り合いや男達と関係し、ナメクジみたいに陰気でなんともムカつくゴミ箱机の主、涌井律子に対しての非道ぶりをこれでもかと露骨に発している、常に大人びていてサイケデリックな噂を纏っている片桐アサミに対して、その事実を告げる事は結構な勇気が要ったのである。


ナオヤもまた、そんな人間関係をシズカから聞いていた。

しかも、なんとなくタイミングが悪く、なかなか本当の事を、「シズカと付き合っている」という事をアサミに打ち明けられずにいたのだった。

――――「ちょっと~!マキィっ!カップ空っぽじゃーんっ!!」


アサミは振り返ると同時にマキ達にずんずんと詰め寄り、空のプラスチックのカップを持つマキの腕を掴んでぶんぶんと乱暴に振り回した。


―――威勢良く吐き出す声がどこまでも苦しかった。


悦楽と快感に満ち満ちているはずの今、この最高のはずの場所、楽しくてしょうがないはずの特に意味も無いふざけた台詞が、発するごとに逆流して鋭い牙を突き刺す。


・・・苦しい。

ツライ・・・、キライ?


・・・いや・・・、ちがう・・・、違う!


こんな・・・こんなアタシっ・・・、違うっ・・・。

―――地味にではあったが、テンションの不穏な変化を示し始めたアサミを見て、勘のいいまとめ役のマキは先ほどのカナの台詞とそれを制した自分の台詞とのやりとりをアサミが聞いてしまったのだと悟った。

ミツコもまた、そんなマキの醸し出す急降下していく温度を敏感に感じ取り、閉口した。

アサミのそんな様子を見て一瞬沈黙した二人の間に、未だに絶望的に空気が読めていないカナがこれまたタチの悪い酔っ払い調子で、アサミにとってはトドメとも言わんばかりの台詞を吐きながら割り込んできた。

「げっへェ~っ!マキマキっ!もっと飲めェっ(^▽^)♪シズカめェっ、後でナオヤ先輩と一緒にぶっ潰してやろっぜェっ♪」


―――「・・・っ!!」

――――――・・・・・。


――――そこから先をアサミはよく覚えていなかった。


多分何かしら、穴埋めみたいな空虚な会話、やりとりが成されたのだと思う。

何を言ったのか、どうしたのか、何を聞いたのか、皆がどうしたのか、よく覚えていなかったがとりあえずあの場所を出たみたいだ。


気がつくとアサミは一人、夜道を足早に歩いていた。


満ち沿いに灯るいくつもの街灯を流し、時折すれ違う車のヘッドライトを受けながら、もう真夜中近くになり、とっぷりと沈む街の道をアサミは無心で急いでいた。

急ぎ足で歩く足に慣れない新品のピンヒールはやたらと食い込んできて、一歩一歩が痛かった。
歩む度に反復するその微細な痛みを、意識の隅でぼんやりととらえながらアサミはとり憑かれたみたいに、急かされているみたいに、逃げるようにして一人歩いた。

途中でカバンの中の携帯電話が何度も何度も振動しているのがわかったが、全てのそれを無視して歩いた。


そしてついに足が痛くなって歩けなくなった。

アサミはピンヒールを脱いで両手に持った。

涙が出てきた。

最悪だと思った。

――――真夜中過ぎの夜道を裸足で歩き、やっと家に着いた。

不覚にも濡れた頬は夜風にさらされてとうに乾いていた。
ボロボロになったピンヒールを持ったままの手の甲でそれを一応確認すると、倒れこむ様にして家に入った。

しかし、家に入るや否や玄関で妹のスズコとはち会ってしまった。

階下に降りてきたところだったスズコは、もうとっくに就寝し、今、たまたまトイレに起きてきたらしくパジャマ姿のままで、アサミとの予想外の遭遇に驚いた顔をして立ち止まった。

「お、姉ちゃん・・・?」


・・・ちっ・・・。


アサミは見事な間抜け面をしてこちらを見ているスズコを見てそう思った。

・・・なんでアンタといきなり遭遇しなきゃなんないのよ・・・。

そうこうしているとすぐに玄関先での物音を敏感に察知したのか母親、といってもスズコにとっての母親、アサミにとっては義母であるマサコが廊下の奥のリビングからこれまた寝巻き姿のまま出てきた。


「・・・ちょっと、あんた、何時だと思っているの?」


マサコは門限破りの不良娘を迎えるにあたって、この上なくお約束すぎる文句を吐いた。そして単純に眠かっただけかもしれないが、何か醜いものでも見るような感じに顔をしかめながら近づいて来た。

「いい加減にしなさいよ・・・――――」


マサコが続けて何かしらの説教をたれ始めたのはわかったが、アサミは無意識にそれをシャットアウトした。

それを聞いても何の足しにもならない、すこぶるテンションもモチベーションも下るし、なんだかとてつもなく嫌いな感情が湧き出てくるきっかけになる様な文言だという事を重々に承知していたのだ。

しかもそれが誰に聞かせても、おそらくはもっともな正論であるのだろう内容だから余計にしんどかった。

無論、誰がそう思ったとしてもアサミは見ず知らずのそんな誰か達がどう思おうなんて知った事ではない、と思っていたのだが。

―――マサコが寝巻きの上に羽織った趣味の悪い薄紫色のカーディガンの下で気だるそうな腕組みをしながら、依然としてまだ何か醜くて煙たいものでも見るような顔で何かを喋り続けている。
スズコはおろおろとしながら不安げで弱々しい小動物の様な有様で佇んでいる。


思いもよらぬ裏切りと真実に襲われ、心身共にズタズタになって夜道を裸足で帰ってきたばかりのアサミは、いつも思っている以上にも増してそんな状況が、場所が酷く不快で、辛くて、腹立たしく、そして痛くて悲しくて、嫌いで・・・。
とにかくすこぶる居心地が悪く感じた。


とにかく、すぐにでもこの場所から消えたい、っていうか、むしろこの場所を消したい。

こいつら、いなくなればいい・・・。


シャットアウトしたままである、空虚で疲れきったアサミの脳裏に一瞬そんな事がよぎった。


しかし、アサミはそんな思いを振り切る様に、足元を見た。


裸足の足は思いのほか長い距離を歩いてきたのだろう、薄黒く汚れていてほんの6、7時間前にカラオケの個室にて塗ったばかりのペティギュアもボロボロになってしまっていた。
その現実にまたしても惨めな気分になる。こんなの違う、と思った。


また更に湧いた不快さをかき消す様に、くまなく玄関に置いてある靴を見渡した。


マサコのパンプス、スズコの運動靴、ご近所用のひっかけサンダル、アサミのローファー、ブーツ、ミュール、・・・あとはほとんどがアサミの靴だった。


やっぱり・・・、無いか・・・。


アサミは諦めてまた元の位置、マサコのつま先まで視線を戻した。
マサコはまだ何かを喋っていたが勿論アサミは何も聞いていなかった。


「―――ちょっと、あんた!聞いてるのっ!?」

はっとした。

急にボリュームが上がった声に驚いた。

気がつくとアサミのすぐ目の前までマサコは迫ってきていて、アサミがゆっくりと見上げると、恐ろしく険しい表情のマサコが未だに玄関で裸足のまま立ちすくんでいるアサミを見下ろしていた。
何処まで話が進んでいたのかは分からないが(とは言ってもマサコが喋り続けていただけなのだが)その時アサミの頭上でマサコが吐いた台詞によって、アサミの何かがキレてしまった。

「気に食わないんなら、あんたなんて出てってもいいんだからね?」

怒鳴ったりとか、感情的に高ぶった様な調子ではなく、妙に落ち着いた何食わぬ一言という調子でマサコは言った。

表情まで冷静だった。


――――・・・この女・・・。

こんな事はいつもの事、もう慣れているはずなのにアサミはガラにもなく一瞬取り乱し、泣きそうになった。
が、すぐに俯いてそれをせき止め、先ほど聞きそびれた事を、ほとんど期待なんてしていなかったが一応聞いてみた。

「・・・パパ、帰ってないの?」


マサコはため息まじりに淡々と答えた。


「あたりまえでしょ、甘えてんじゃないよ」

――――・・・きらい。

せき止めてもどんどん熱くなっていく瞼を必死で強張らせながら、俯いたままアサミは強く歯を食いしばった。

自分の力ではどうにも抑えきれない、一番嫌いで不快で、怖い感情がこみ上げてくるのがわかった。
そしてまたそんな感情に支配されゆく自分自身もかきむしりたいぐらい嫌いになっていった。


マサコがまた何かを言い始めたのを聞くか聞かないかくらいの瞬間、アサミはぐるりと踵を返し派手な音をたててドアを蹴り開け表に出た。

明るい照明のついた空間に慣れた目が一瞬くらんでいたせいか、ドアを蹴り開けた瞬間、眼前にあるはずの幾分か視界が利くはずである住宅街の夜の景色が、途方もない絶望的な深い闇に見え、しかもそれがどこまでも続いているみたいだった。


―――「だいっっきらい!!」

アサミは振り返らずに全身を強張らせたまま腹の底からそう吐き捨てると、裸足のままでその闇の中へ駆け出した。

正直、こんなに衝動的で完璧に無計画な行動に出るなんて信じられなかった。

―――――アサミがまだ小学校に上がる前に家にやって来た女、新しい母親、マサコとはどうも折り合いが悪く、だから今までも何度も何度もケンカになったり、衝突したりしてきたが頭の良いアサミはその度ちゃんと前後の事を考えて行動した。

だから粗方のそういったイザコザは大抵そんなに時間をかけずに収束した。

それに、もしも家を飛び出すのであってもちゃんと持ち出す物は持ち出し、ある程度の行き先のアテは作った。
そのくらいの事は慣れてしまえば余裕だった。

それに家を飛び出す、という行為はつまり、たとえ衝突相手がマサコであっても誰であっても、仕事が忙しくほとんど家に帰ってこなくなってしまったアサミの実の父親、信彦に対するひとつのアクションなのだった。


しかし、信彦は最近では特にだが、マサコが家にやって来る前やスズコが生まれる前みたいにアサミの事を気にかけてはくれなくなっていた。

アサミが生まれてから間もなくアサミの母親は病死した。
その後、信彦がマサコと再婚し、現在の様にマサコやスズコが家庭に加わってくるまでの数年間、信彦は「片親で、しかも男手だから」という呵責の念からか、アサミを可能な限り可愛がり、傍に居て、近所の人も感心するくらいに手厚く手厚く育ててきた。

近所のおばちゃんやなんかが、アサミと信彦に会う度にかけてくれる信彦への労いの言葉や、片親を不憫に思っての事か、何かとアサミの世話をやいてくれる度にアサミは自分が大切に守られている事を、たった一人の家族である信彦にとって何にも負けないくらいに「特別な存在であるのだ」という事を幼心で無意識に噛みしめていた。
それはとても満ち足りた思いだった。


実際、アサミは幼すぎたのもあってか、実母との死別をそんなに重たく心には残していなかった。
そして、そんな中でいつでもどんな時でも自分を守り、味方になり、認めてくれた、大切にしてくれていた実父、信彦への依存心はかなりのものになっていった。


だからマサコやスズコが家庭に加わってから、マサコとやりあったりして家を飛び出す前には「大体こんくらいね」と無意識に信彦が自分を探してくれるであろう時間のリミットを決め、それなりの準備をして飛び出して行くのだった。
そういう微細な期待がそんな余裕を産んでいたのかもしれない。


しかし、大抵は3日なら3日というそのリミットが来ても信彦はアサミを探し出してはくれないのだった。

・・・マサコやスズコが家庭に、ここに加わる前ならばそんな事は絶対になかったのに。

アサミはいつもそう感じながら、虚しく寂しく、ふいに起こる憎しみの様な感情を抑えこみながらも、何食わぬ顔をして家路につくのだった。

そしていつしかアサミは、そんな風にして日増しになる孤独感の中に於いて、自分自身を守る為に、自分のマインドをコントロールし、生きていく為に言い聞かせる様になっていた。

―――我慢なんてしない。

アタシは、アタシの力で守る。

アタシの居たい場所を、居られる場所を。アタシを。

誰にも頼らない、邪魔もさせない。


楽しくて、心地よくて、最高で、アタシが願う場所を、在りたいアタシを守る、勝ち取っていく。

その為なら、どんな事だってしていこう。


アタシならできる。


・・・それがアタシの生き方なんだ。


・・・・・そう、もう誰も守ってなんかくれないんだから。


・・・でも、そんな事、全然平気。


――――全くの無計画で、衝動に完璧に身をまかせて飛び出したアサミはもちろん行くアテもなく、裸足のまま闇に沈む住宅街をさ迷った。


いつもならある程度の先を照らす事ができていた自分の視界は真っ暗で、前例の無いそんな状況下、もうどうしていいのかわからなかった。


でも、なんだか絶対に歩みを止めたらいけない気がして、怖い気がして、とにかく歩いた。


多分、駅の方へ、比較的明るい繁華街がある方向へ導かれる様に向っていた。

道すがらそんな全くの無計画かつ衝動的な行動に出た自分への後悔や不甲斐なさ、虚しさや寂しさに襲われた。


頭がもんもんとした。


・・・違う、こんなの違う。

幾度と無く、ぐるぐるとそう思った。


途中、ほろ酔い調子でけたたましい笑い声をあげる男女数人とすれ違った。
全然知らない面々だった。

ふと、シズカ達の事を思い出した。


・・・ナオヤの事も思い出した。


マキ、ミツコ、カナ、つい数時間前まで居た、最高に好ましい時と場所の事も思い出した。


その中での自分の事も思い出した。


・・・そして、それらの全てを裏切る様な真実が判明した事も。


――――きらい・・・。

続いてマサコやスズコが頭をよぎった。

――――きらい・・・。

そして今ではもうほとんど家に居ない信彦の事を思った。


―――き・・・、らい・・・、きらい、きらい、みんな嫌い。


―――気がつくと駅前の商店街の入り口付近まで来ていた。

住宅街よりも幾分かは明るかったが、都心のそれや大きな駅という訳でもないし、ましてや平日の夜中だったので腑抜けてしまうくらいに風通しがよく閑散としていて、しみったれた印象であった。

そんな情景が更にアサミの荒んだ心の外装を引き裂いた。


・・・もう少し歩けばあのライブハウスがある。


シズカ達はもうさすがに帰っただろうか・・・。
いや、マキやミツコやカナはともかく、シズカとナオヤはまだあの辺りをうろついているかもしれない。

先ほどから頻繁に鳴り続けていた携帯をとって彼らに連絡をとり、そこへ合流すれば彼らはきっとそれなりに対応してくれるだろう。
当たり障りのないいつもの様な対応でアサミを受け入れてくれるだろう。

そしてくだらなくて意味の無い、いつもの様な最高に居心地が良くて丁度良い会話を投げあいながら共に時間を潰してくれるだろう・・・。

もう少し行けば、某居酒屋がある。

もちろんアサミは中学生だから、普通なら居酒屋になんて入れるはずもないのだが、そこはとても小さな個人経営の店で、明らかに未成年と分かる様な若者にも平気で酒を出すようなとんでもない場所だった。
無論、アサミにとってはとても居心地のいい場所だった。
よくシズカ達や年上の知り合い達と行って騒いだ場所。

カウンター内にいつも居るオーナーのおばちゃんは、きっといつもの様な焼けただれたガラガラ声でいらっしゃい、と笑ってくれるだろう。
あったかいおしぼりと小松菜と油揚げを煮たのが入った小鉢とビールを出してくれるだろう。そんなおっさんクサイのヤだ、とアサミが駄々をこねればまたガラガラと笑いながら揚げたてのフライドポテトとケチャップを出してくれるだろう。
そいで、「どうしたんだい?」と言ってくれるだろう。

―――もう少し行けば、もう少し歩けば・・・。

考えれば、アテはたくさんあった。

まったく以て15歳の中学生らしからぬモノへの興味や欲望を思うままに実現させてきたアサミには、普通のそんな子供達よりはるかに広いネットワークがあった。


そう、行くアテはたくさんあった。


でも、その夜、アサミはその何処へも行かなかった。

行けなかった、いや、行かなかった・・・。


もう何処にも行きたくない、一体何処に行けば、居ればいいのかわからなくなっていた。

その夜、一気にアサミにとって一番に守りたかった場所やモノが、一番に守りたかったモノと場所によって砕かれたのだ。
そして、本当は帰りたかった場所やモノから、一番に帰りたかったモノや場所を「大嫌い」と全否定しながら、飛び出してきてしまったのだ。

たくさん、たくさんたくさんあったはずのアテは、そのたった二つの崩壊をきっかけに一挙に色彩を失い、アサミの中で極めて虚しく、いたたまれない居心地の悪い場所へと変貌した。恐ろしい場所へとなっていった。


―――・・・なんで、なんでよ。
なんでアタシ、何処にも行けないの?


あんなに楽しかったのに、心地よかったはずなのに、大好きだったのに。

なんで、こんな時になって、何処にも行けないのっ!?


・・・帰りたいのに、守りたかったのに・・・。

・・・なんで・・・迎えてくれないのよ。


アタシ、何でも出来るよ、その為なら。

何だってするのに・・・、してきたはずなのに。

・・・なのに、なのに何で!?


シズカもナオヤも、マキもミツコもカナも・・・。


マサコもスズコも・・・、パパも・・・。


・・・何で、・・・―――れないのよ・・・。


見てくれないのよ・・・、見ないのよ!?


・・・ちくしょう!


きらい!・・・きらいよ、ぜーいん大嫌いっ・・・。

結局何処にも向かえなかった足をまた元来た道へ戻した。

そして少しずつ、つい先ほどまでアサミの中に不動にあったはずの、居心地の良かった場所、守りたかったモノ、帰りたかった場所に対して、ふつふつとそんな感情とは相反するおぞましい何かが湧き立った。


冷え切った手の甲はもう頬をぬぐってはくれなかった。

・・・・・きらい、シズカもナオヤもミツコもカナもマキも、マサコもスズコも、パパも。
・・・みんな、消えればいい。


アタシの気持ちを壊すのなら、アタシを壊すなら・・・。
・・・みんな、みんないなくなりゃいいんだ!

―――道を戻るに連れて、駅前にかすかに浮遊していたいくつかの明かりが遠ざかり、少しずつ闇が足音を深めてくる。


確かに元来た道を戻っているはずなのに、その時よりなんだかもっと暗い深い、気味の悪い闇が迫ってきている様な気がした。


「―――ウソツキ・・・」

その時、アサミは確かに自分に向けられて発せられた音、いや、声を聞いた。


瞬時に振り返る、

・・・そして見た。


マスカラとライナーで真っ黒に縁取られてしまっている両目を眼球がこぼれそうになるくらいに見開いた。


「―――・・・!!?あっっ・・・!?」


――――振り返った瞬間、真っ黒に染まっていた視界が嘘の様に完全に真っ白に発光していた。

そして今までに聞いた事がない、激しく圧力的な音に聴覚を支配された。


・・・直後、心身全ての神経や感覚がねじ切られる様な痛みが一気にアサミを潰した。


・・・しかし、そんな刹那の出来事の中にアサミは見た。


そこに在るはずのないモノを、存在を、確かに見たのだった。

――――「・・・ウソツキ。」

無情すぎるくらい固く冷たいアスファルトの上に仰向けに倒れたアサミは、それがもう一度そう言いながら自分の顔を真上から覗き込むのを遠のく意識の中で見ていた。

「・・・あ・・・・・。アンタ・・・―――」


―――――街灯の逆光を受けてほとんど詳細のわからないそれは、どこまでも深い闇を携えながら、哀れむ様な、蔑む様な、悲しむ様な、妙な空気を混沌とさせながら血だらけになったアサミの顔面を見下ろしていた。

沈まる闇が次第に垂れ込めていく静かな真夜中、車に撥ね飛ばされ、人形の様に力なく転がるアサミの視界の中で、それは痛々しく歪曲しながら消えていった。

Posted by 蓉 on 5月 2, 2009 | | コメント (11) | トラックバック (0)