EVER AIR@(継続)
・・・映二は何も言わなかった。
ただ膝をついて全身の力が抜けて辛うじて姿勢を保っているであろう格好で、夜闇に響く花火の光と影の合間で微動だにせず居た。肩で小さな息をしているのが判った。
動きを見せない映二のくたびれた背を含んだ視界の全体をしばらく呆然と見つめていた。
・・・ミュールの踵が折れた。その辺りの肉が余計な負荷に苛まれていて、べらぼうに痛い。身体全体の不快指数は測定を停止した。筋肉が痛い、動いていないのに息がだんだん苦しくなる。肩から腸までの臓器を駆使して必死に酸素と平素を得ようとてんやわんやでいるが静寂。何か声を発しようとするも音無しで激しくなっていく呼吸に後回しにされ、なかなか発っする事ができない。
全身で呼吸をしながら明暗を繰り返す視界の中、透子は汗に濡れながら限りなく無心に近いままで居た。
しかし、機能を停止した意識とは関係ない衝動で、土まみれの手に小さな石ころを一粒掴み、映二の背に向って投げた。
背中に石ころが当たったのに気づいて、映二は一瞬びくっと肩を動かし、ゆっくりと透子を振り返った。
まだ呼吸も整わないままの透子はすぐに、ちかちかと点滅する視界の中、なんとか這う様な格好で四つんばいにずるずると四肢を駆使し、映二ににじり寄った。
映二の顔は汗だくになっていて、身体からは下がりきらない熱い体温が発生していたが、肌は寒々と青ざめていた。
辛うじて灯っていた光すらも失った目は相変わらず前髪の奥で黒く穴の様に見開かれている。感情らしき匂いは無くなっていた。先ほどまでの生命力に満ちた疾走が嘘みたいだ。
いっとう最初に出会った時、あのマンションで「ドッ」という金髪のボブカット女が地面に叩きつけられた音を聞いた後に見たあれだ。
底なしの黒い穴みたいな怜悧な目。救急車ではなく警察だけを呼んだ、可能性ではなく不可能で塗りつぶした、鳴り止まない諦めが混沌ととぐろを巻いているあれ。虚無で構成されている失われた感情の抜け殻。
ボロボロに疲れきっていた透子はマトモに思考が働かなかった。あの日の夜みたいにその印象に感化され畏怖を覚える余裕もない。
肩と全身で必死に呼吸を整えながら、映二の肩に手をかける。
恐怖とか正義感とか、もう意思とかじゃなく、っていうかそんな余裕はない。言葉だけが脳からころっと落ちるみたいだった。
「・・・き、きゅうきゅうしゃ。・・・呼んで」
静かに決壊した脳から次々にころころと落ちる。
「・・・呼んで・・・救急車・・・は、やく。・・・救急車呼んで!」
まだマトモに呼吸や思考が整わないうちにまくしたてて落ちていく言葉に過呼吸気味にすらなってくる。映二はぴくりとも動かず、虚無の穴で透子を呆然と見つめている。
・・・苦しい・・・苦しい。
次々に落ちる言葉が肺を追いつめていく。
久しぶりにびっくりするくらいの距離をゾッとする程の全速力で、勝手な憤りと不条理の中、一心不乱に疾走してきた透子の体力や精神力は、云わば何年も忘れ去られていて錆付いた機械を無理やり稼動させたみたいにガタガタと無様に音をたてて暴発と誤作動を繰り返していた。
完璧にイかれた機械は自爆に向ってまだ言葉と熱を排出し続けている。
しかし、そのリスクを対価にしても、救急車を呼ばなくちゃいけない。今、やらなきゃ。今じゃなきゃ・・・。警察じゃなくて、救急車を呼ばなきゃ。
そう、だって、今、目の前に見える。いるじゃない。
勝手に、知らないうちにガス自殺とかして終わってしまった「死」じゃない。
どうにもならなくなってしまったそれじゃない。
まだ・・・、だって、今、少女は目の前に在る。それはまだ、今なら触れる事ができるじゃない。
かあっと脳が熱くなった。
それが起爆剤になって透子の全身になけなしの血を熱とを送り、ある意思を灯した。
透子は映二の肩にかけた手で依然動こうとしない映二を軽く突き飛ばして勢いをつけると、揺らいでそのまま倒れこみそうになっている映二に脇目も振らずに大橋の下、暗い暗い柱の元の死角に横たわって動かない少女の元へ駆けた。
等間隔に打ち上げられ続けている花火のせいで辺りは光と闇とを繰り返している。地響きみたいに鳴るどんどんという鈍く巨大な振動に足の下が何度も揺れる気がする。今にも平行を失いそうになる。それでなくとも回復せぬままの視界はまだ点滅していて、前すらちゃんと見えない。でも、・・・。
よろよろと不恰好なまま、なんとか少女の元に駆け寄る。頬に触れてみる。
・・・まだ少しだけ暖かかった。まだ、「生」が、微々たる量にまで激減しているけれどまだ、在る。
此処に在る。少女の頬の皮膚と、私の手のひらの皮膚を境に、ふたつの境の刹那に、弱い熱を含んだそれがここにまだある・・・!
すがりついた。
激しい夕立と雷鳴の轟く中「置いていかないで」と泣いた時の、底なしの、どこまでも残酷で透明な絶望感。二度と御免!と思っていたそれ。それから必死で逃れたいと、ただ泣いた時の様に。
透子は無心でただ、脳から落ちる指針が突き刺さるまま、突き動かされるまま、そう、恐ろしい狼から必死で逃げ回る様に、少女の小さな胸に手を当て、乾いた唇に唇を合わせ無心で人工呼吸を執り行った。
いつかテレビの「救命ドキュメント」か何かで見た、うろ覚えの延命処置だったが錆付いた記憶の戸をえぐりながらただ、続行する。
・・・苦しい、苦しい、苦しい!・・・。
息が、くるしい。
視界が、肉が、頭が、意識が、記憶が、予測が、・・・あ~っうざい!疲れた!ビール飲みたい!シャワー浴びたい!
なんで、なんでこんなことまでして、苦しいのに。くるしくて、悲しくて、やりきれなくて、痛くて痛くて、ずっとちゃんと知っているのに。ここにあるものがすごくこわいことだって、悲しいものだってずっと知っているのに。
なんで、触れているの?もう触っちゃ駄目って知って・・・・・。
なんでよ、なんで言う事聞かないのよ!?・・・いま、すっごい苦しいのに・・・!
でも、・・・。まだ此処に居るなら・・・まだ、在るなら、・・・無くならないでほしい。消えないでほしい。
その声から逃げられない。忘れられない。捨てられない。
だって、どうにもならなくなってしまったら、無くなってしまったら、過ぎてしまったら・・・それはもっとこわいものになるってことも、知ってるんだ。ずっとずっと、こわいものに。どうにもできない絶望に・・・。
終わってしまったら、例え「死」でもそれが「終」になってしまったら、それは覆せない永久の恐怖になるんだ。
喪失と絶望だけを遺して、「生」を「続」するものに、底なしのそれらをずっと遺すだけなんだ。
私は、・・・その方が何よりもいやだ・・・もう。
「嫌・・・」
透子は過呼吸気味の中でやっとこさ得た酸素を少女に惜しみなく与え続けながら更に呟いた。言葉と酸素を吐き出したせいで更に呼吸が乱れる。全身が痛い。ついた膝からは血が滲んでいる。
・・・ねえ、嫌なのよ。とてもこわいことってわかるの。そう、もし届かなくなってしまったら、終わってしまったら、なくなってしまったら、それは・・・とても・・・。
「嫌・・・いや。いや!いやいやいやいやああっっ!!!」
半狂乱状態の中、うろ覚えで繰り返す人工呼吸の動作は虚しく無意味にだんだんと手荒になっていく。
その時、透子の身体は後ろから何か強い力で捉えられた。
「!?」
自分が激しく乱れた呼吸をしているのに改めて気がつく。瞬時に酸欠状態の脳が平行を失い、視界が大きく斜め下に落ちた。
映二だった。映二は透子の身体を後ろからがっちりと捉えると転倒しそうになった透子を軽く支えた。
「・・・・・。」言葉が出ない。
リズムの狂った脈が頭の皮膚をドンドンと打つ。透子の全身は全総力を動因して「呼吸をしろ」という緊急指令を全うする事に没頭している。停電して非常灯のみが燃え盛っている。他の機能という機能が全てストップさせられている為、言葉など出るはずがなかった。
ただ、異常な程に荒くなっている自分の息づかいと脈の音だけをぼんやりとした斜めの視界と感覚の中で思った。
半分倒れたまま動く事も喋る事もできなかった。ふと、激しい呼吸と脈に揺らされて焦点が合わない、斜めに落ちた視界の中にてきぱきと活動する姿がゆっくりと浮かび上がってきた。
映二・・・?
映二は手際よく無駄のない動きで心臓マッサージと人工呼吸をしていた。腑抜けてうな垂れたまま虚無の穴と化していた先ほどの人物とはまるで別人の様にひとつひとつの動作から熱を発しながら。全体から確かな実体と重みを感じる。
一体どこで覚えたのだろう。映二の応急処置は完璧に見えた。幾多とこのような状況を越えてきたのだから、何処かで手馴れにならずにはいられなかったのだろうか。
その動作の全ては美しく、手馴れで、本物の救急救命士みたいだ。
少しずつ正常な感覚と呼吸を取り戻してきた透子はむくりと身体を起こし、ぺたんと間抜けに座った格好のまま映二と少女を眺めていた。
少女は依然、ぴくりとも反応を見せない。ただ、映二からの作用を受けるだけで、人形の様に機械的に揺れる。映二は一瞬も躊躇う事なく応急処置を続けている。縁日の中を、薄暗い夜を疾走した時に見せた迷いのない力強さ。絶望の穴の中で存在も定かではないような希望を貪り、一直線に飛び込んでいく姿には畏怖すら覚えた。今、あの時の映二がそこに居た。
・・・この人と私は、よく似ている。透子はそう思った。
只々、当たり前の幸福や充足に手厚く守られて、それを享受しうる術をごく自然に、当然の通過の様に身に付けられないまま、喪失や悲しみにばかり神経を尖らせながら、そのひん曲がった切っ先で絶望感と諦めとを分厚く纏い、闇と化したその内で「死」という象徴の下に力なく潰れながら、只々、これ以上の変化にきっと付随してくるであろう衝撃に戦慄き、分厚いそれから外をぶっきらぼうに拒絶する事しか出来ず、しかしながら分厚い内の闇の中、そこから外に在る希望と「生」を忘れる事も出来ずいて、その矛盾に嫌悪しつつ、自らの「生」ですら諦めた風を装い、しかしながら、やはりここから外にある自他共々の「生」を忘れる事ができずに、
結局は、ただ、愛さずには、求めずにはいられなくて。
絶望を利口に理解したふりを装いながら、馬鹿まるだしの無様さで結局は希望を貪り続ける。
「生」を渇望し続ける虚しさは「死」をただ了解するのみの力すらも凌駕してしまうというのに。双方の実体とその力には大差はないが、しかし、決定的な違いがあって、それは「継続」。
続いていく「生」と、
終わってしまう「死」。
降り続け、地面に打たれ停止する冷たい「終わり」の雨粒の繰り返しをただ受け続けるだけの肌は確かな熱を生み「継続」する事を辞めない。
「生」の「継続」を辞めない。わたしたちは、辞められない。
分厚い灰色の雲の向こうにあるかどうかも定かではない光を受けたいと一心に継続するだけ。
それは悲しく、無様であり、汚らしくも、しんどくもなり、辛く、痛く、こわいものを容赦なく連れてくる。
しかし、肌と肌の下の血液や臓器をはじめとするこの存在を形作る全てのものは全総力を動因して、ただ熱を生み続けるのだ。
暗闇の中、音も無くただひたすら「生」を「継続」するだけ。
そのふたつの向こうにある色々に、鋭くひん曲がった、利口で無知で柔らかい心というものが、柔らかいその表面に新たな痛みを覚える事を時に恐れ、無理やり「絶望」を「終」で貼り付ける。
これ以上もう・・・。何も要りませんから、何処も壊さないでと。
そうして静かに滴り落ちる泡沫の「死」の匂いに溺れて「生」と「継続」とを丸ごとその中に沈めようとする。
しかし結局どのようにしても「生」は「生」なのだ。
「生きていたい」と「生きてほしい」というこころの実体はずっと昔からあり続けている。
「生」や「死」の途中で,
たまたまとりあえず在るだけの私達にはどうすることも出来ない問題なのだ。
結局、愛しくて、愛おしくて、求め続けるだけ。辞められない。
私達はそういうもの。私達の定義そのもの。
がつがつがつがつとした、「継続」、私達はそれ。私達のそれ。
どっちでもなくて、ただのそれ。
正しくない、利口でもない、美しくない、えげつない、終わらない、ただ続けるだけのそれらの中で。
・・・なんて馬鹿だろう。馬鹿だ。無駄だ。
それこそ永遠の虚無の穴そのものなのかもしれない。
・・・ああ、それでも・・・。
きっと、この人と私は似てる。とてもよく似ている。
馬鹿みたいっていう諦めと擦れた眼光とで大人しく沈黙しながら、
きっとどこかで馬鹿でもなんでもいいって、それでもどうでもいいって、
「それでもいいんだよ」っていう例えば、言葉とか?
ここの外からの「希望」を求め続けている、
・・・大馬鹿ものだ。
そういうのはとても弱いから、ずるいから、ひとつきりでは「生」と「継続」に何度も「絶望」してしまうんだ。
そう、よく似ている。わたしとあなた。あなたとわたし。ひとつきりでは駄目なところが。
でも・・・いま、いまなら、ひとつじゃないのかな・・・。
非力で柔らかなひとつとひとつの肌の境には新たな熱が発生し、互いを暖めるんだ。ひん曲がってしまって、錆付いた互いのほんとうを呼び合うんだ。
そうでなければ、なんで私は、走ったの?交われたの?関われたの?たくさんのこわいことをよく知っていたのに。なんで触れたりしたの?
細かい事象、恐怖、驚き、衝撃、不条理、不可解、それらはこの先もずっと私を苛む。
きっとずっと震えは止まらない。
それらや悲しみもまた生きものであるから、勿論、共に続いていくだろう。
私の身体は確かに熱を持った。
唇にひいたみずみずしい紅や、頭に入らないまま閉じた活字の羅列とその夜や、回転と加速を辞めなかった足や、酸素を失いかけながらもその苦しみすら投げた私の中のほんとう。
それらはちゃんと熱を持ったのだ。
もう忘れていた、忘れようと「停止」せよと利口に沈黙させた熱は、結局はこうして私を「継続」させていた。
きっとこれからも、結局はそう、
そういう風に続くだけ。
だってそれは「継続」という流れ行く灰色の雲の下に堕ちた、柔らかくてしんどくて、それでも、いやむしろ、それこそが愛おしくてたまらない「生」なのだから。
少女の身体が小さく反応した。
映二からの作用を受けるだけの無機質な動きではなく、少女の肌の下から発せられた確かな熱を帯びる反応。
映二はそれに気づいて、少女の頬を何度も叩く。
激しくノックしてその内の「生」を呼ぶ。激しく激しく優しく、ぶっきらぼうに求める。
「起きろ!起きろ!死ぬな!」映二は叫んでいる。
生きろ!生きろ!終わらないでくれ!のほんとう。
そして、少女が少しずつ細くたたまれた瞼をゆっくりと開く様を、透子ははっきりと見た。
灰色の雲を轢きちぎって激しい産声をあげる雷のひとすじの様であり、しかしながら、空けない夜を割ってあふれ出す橙と黄の美しさを携えてもいた。
綺麗だった。
恐ろしいほどに綺麗な熱の誕生。
・・・透子は泣いた。激しい呼吸と脈はいつしか止んでいて、代わりに次々と涙が落ちた。
少女は瞼をはっきりと開けると黒々とみずみずしく潤う眼に小さく眩しい白い光を映した。
花火は終焉を迎えているようで、次々と色とりどりに夜空にあがって、誕生と死滅を繰り返していた。
そのひとつ、赤い色の光を少女の目が映した時、少女は小さく呟いた。
「・・・きれい」
予想外の第一声に拍子抜けしたのか映二は電池切れして、一気に崩れ落ちた。
しかしその背はもう虚無の穴はくくられていないし、抜け殻でもない。
小さく肩が震えている映二のそのもの。映二のほんとうから透明にまっすぐあふれ出す「生」そのものの動作。確かな熱の実体。鼓動。「生」の鼓動。
透子はそれもはっきりと見た。泣き続けた。激しく声を上げて。
無様に溶けたマスカラは顔面を汚し、膝から出た血は褐色に固体になって張り付き、折れたミュールの踵は機能を失い、小さな傷と虫刺されまみれの四肢は果てなく痛みを叫び、疲労してヨレヨレの骨と筋肉はだらりと姿勢を屈折させていて、大変に救いようのない汚い格好でいたが、そんな事はどうでも良く、激しく声をあげてわあわあと泣いた。
そうせざるを得ないのだった。
花火はほぼ間隔をあけずにどんどんと夜空で鳴いている。
刹那に次々「死」する繰り返しの境目での儚き「生」の連続。ぶつぶつと途切れ消え、次々に燃えカスにしかならない存在を惜しみなく恥じなく、一瞬の恐れもなく誇示している。一瞬の光の為だけに。
透子の声に気がつき、映二が振り返る。
映二もまた見通しの悪そうな伸びた前髪の奥にある眼に涙を浮かべていた。
少女はゆっくりと身体を起こし、ふらふらとしていたが、気にかける映二や透子を振り返る事もなく、乱れた浴衣姿のまま、花火に彩られて無数の色彩に染まっている空を見上げたまま、河川の草むらに歩き出した。
大橋の暗い下からそこ向い、弱々しく歩いていく少女の身体もまた無数の色彩の光に打たれ、染まったり影ったりの点滅にきらめいた。
「きれ~!!」
少女は今の今まで失神して死にそうになっていたというのに、びっくりするほど元気で無邪気に笑いながら声を張り上げた。
透子と映二は呆気にとられながらそのきらめく小さな背を眺めていた。しばらくして映二がやっと口を開いた。
「きれい・・・ですね・・・。」
透子がふり返る。
まだ止まらない震えを全身で受けながら涙眼のまま、打ちあがる花火とその点滅する光を受け、くるくると色とりどりにきらめく小さな背をじっと見つめている。
「・・・よかった。・・・生きてて・・・ほんとうに、よかった」
・・・生きて、ほんとうに、よかった・・・。
透子には、その映二の言葉が、震えながら泣きながら発せられた熱い熱いそれが少女にはもちろん、映二自身にも、そして透子自身にも向けられた言葉のように感じた。
その確固たる熱をそうとらえて、噛みしめると分厚く覆っていた灰色がゆっくりと溶けはじめた。
そして、透明になる。
何の遮りもない、ずっと小さなころにあった、良く知っていたはずの無限。
一切の混じりけや分厚い濁りが溶けた、透子のこころのほんとうが激しく鳴く花火に共鳴する。
ばらばらと伸びきってよく確認できない薄暗い目元の奥にある眼、強く見つめ続ける濡れた眼、確かな熱と拭えない弱さと諦めとを携えている眼、継続への虚無感を忘れきれないまま、おぼつかない「生」が濡れては燃え続けている映二の眼。不透明にまみれた透明。
それら全てとそれら以外の曖昧な境目でがつがつがつがつとぶっきらぼうに生きている。侵される事に脅えながら、求める事を辞められずに。
そうすることしかできない矛盾した、美しくもない、弱くて熱く熱く濡れた眼、他の誰よりもそんな実体を惜しみなく恐れなく現している、映している透明な眼が、今、はっきりと透子に映った。
透子は映二に駆け寄ると、そっと頬に触れた。泥まみれの手が冷えて震える皮膚を優しく汚した。優しく愛撫でる様に侵した。
映二は何も言わなかった。答える代わりみたいに頬に宛がわれた泥まみれの手を震える手で強く握り締めた。
まともに立ち上がり、歩き続ける力すら、あるのかどうかわからないままで、その非力さを嘆く様に、小さな夜に共鳴する小さな熱と熱。
たぶん・・・こうしたかったのだ。
ずっとずっと昔から、それで、たぶんこの先もずっとずっと。
こんな事でよかったんだ。
過去や未来に於いての何ちゃらはやっぱよく知らないし、考えたくもないけど、
今は、この熱がとてもいい。
だから今はこうしたい。こうしていたい。
何もわからなくたって、一筋の光すら見えなくたって、とてもこわいことが延々と続いたって、その最中でこうして熱を感じられるのなら、それはとてもいい。とてもいいこと。
この熱はとてもいい。とてもいい。とてもすき。
最後の花火が散った。
乾いた火薬の匂いと湿った夏の夜、少し冷えた風が吹く。河川沿いの草むらを撫でながら、藍と海へ吸い込まれていく。
重なる手の片方で思った。
終わらせたくない。この手で守りたい。汚れたままでいい、守り続けたい。
失うことの恐怖は全部捨てられるんだ
ここにきみがいるのなら。
亡くす悲しみすら背負っていけるんだ
ここにきみがいるのなら。
いたい、こわい、なみだ、けもの、きょうふ、こどく
忌むべきものは続くだろう、僕らは成す術もなくいくだろう。
それで、どうして、なぜ、どこ、もういやよ、なんも
否と不条理は続くだろう、僕らがおとす真っ暗な影のなかで。
でも僕らは止まれないままだろう。
そう僕らはたぶん選べないんだろう。
その理由は指をすり抜ける砂?
その根源は波にのまれる城?
くりかえしながらいくだろう、忌むべき否と僕らのほんとうとを。
でも僕は止めたくないんだよ
でも僕はいま閉じたくないと思うんだ
その理由は相変わらずわからない
でも、ただ今、ここにいるのなら
そう、ただ君がここにいるだけなのに
いたい、それで、こわい、なぜ、なみだ、どこ、けもの、きょうふ、もういやよ、こどくの何も無し。
それでも生ける気がするんだよ
無数のそれらにたったひとつきりの
ここにいるのなら
無数の先の中、たったひとつきりの
きみがいるのなら。
―――――残暑が磨り減るようにして名残惜しそうに消えていく。
まだまだ蒸し暑い日は続くが朝晩はかなり涼しくなった。
周りでは急な気候と温度変化に体調を崩す人間が続出している。先週、バイトの同僚も風邪をひいていた。相変わらず単調な繰り返し生活で暇人の透子はその同僚の分のシフトを全うするハメになった。
透子はバイトを変えた。というかサブでやっていたバーのバイト一本にしたのだ。バーはショットバーで安値の為、若者からサラリーマン、OL、謎な人物、神、仏、犬・・・等等の様々な客が絶え間なく訪れ、連日連夜かなり騒がしい。
先週突っ伏していた同僚が回復したので、今週は休みが多くとれた。
月曜と火曜と土曜の深夜すぎは完全オフだ。
月曜、朝。前日ねじ込まれた酒がまだもったりと残っている内蔵あたりをTシャツの上から撫で回しながら起床。
午前10時すぎ。ずっと午後にならないと目が覚めない癖は治らないままであったが、今日は何故か自然に目が覚めてしまった。そんな無意識からの衝動をゆっくりと愛撫でる。
体調悪し、二日酔い。でも気分は悪くない。すくなくともここの辺にあるほんとうは悪くはない。
手馴れてきた上品めの薄いメイクをし、長い髪をくるりと綺麗に纏めて金色の飾りを挿す。
7分袖の黒いワンピースにライトな茶色いブーツを装着し、部屋を出る。快晴。日中はまた蒸し暑くなりそうだ。急かすような蝉の声が響く。駅前から住宅街を少し抜け、一方通行のどん詰まりの喫茶店「BLUE BIRD」に到着する。重たいドアを開ける。
店内に客は無い。昼前だというのに薄暗い店内の一番暗いその奥、カウンターの端っこに気配を消すようにして映二が座っている。大量にミルクを入れたホットコーヒーの傍らでセブンスターをたらふく食った灰皿がうとうとしている。そして・・・スケッチブック。まだ生きているのか、もう死んでいるのか。
ドアの開閉の音に気づいた映二が振り返る。
相変わらず青白い全体、結局切っていない伸びきった黒々の髪の毛で眼と表情はやっぱり確認困難。やっぱり不審。
透子はあの祭りの夜の少女殺人未遂の一件の犯人が吉崎という知り合い(というか、知っているだけだが・・・)だったという事実を告げた。
あの一件の直後、現場に園田率いる警察と、何故かほぼ同時に到着した救急車との間ですったもんだでいてあまりよく覚えていないのだが、現場に居合わせた透子に、その後、園田から捜査経過と、現場から押収された風車から検出された指紋が執行猶予中の吉崎のものと一致したという事実と、すぐに全国指名手配で公開捜査になるという事を聞いていたので、まあ一応、映二にも伝えようと思ったのだ。
指名手配というのは、まあ、とんでもないことに吉崎は警察の目を上手いことすりぬけて、こつぜんとどこかに姿を消してしまったらしく、逃亡中だとのこと。
萌え系嗜好でオマケにロリコン。本当に絶句せざるを得ないが、しかし納得、盗撮マニアで常習(ぶっちゃけそうだったらしい)痴漢の吉崎ならば、現実世界よりも異次元世界贔屓の吉崎ならば、う~ん、まあ、なんか納得。
寒気と虫唾が一気に走るような忌まわしいトラウマの一部でもある、色々の対人不振や引きこもりやああ、絶望の起爆剤である事と、その中でのオッサンだったけど、もう会う事もあるまい。あとは園田に任せよう。
映二はそれを聞いて薄く反応を示した。そして困った様に無骨ではあるが言葉を選びながら
「そうですか・・・、実は僕も今朝、ニュースで見ました。お知り合いだったんですね、・・・あの、・・・散々でしたね」と吐いて、わかりずらい表情のままの顔面で精一杯の苦笑いを垣間見せた。
「でも、まあ、あの娘が無事で良かったですよね。」
透子はそう聞いてから注文したアイスカフェオレを飲む。
ふと、テーブルの上に付着しているそれ、スケッチブックを手に取り、透子は無言のまま最初からパラパラとめくる。
おだやかに流れる空気。BLUE BIRDは気の毒なくらい客が少ない。
・・・吉崎の店も確かこんなんだったっけ、まあ、嫌いじゃない雰囲気だけど。
映二は黙ってコーヒーを啜っている。もう、あんな不吉な絵は描かなくなったのか。
パラパラとめくるめく中では様々な死の情景が描かれている。
過ぎていった、どうにもならなくなった、終わってしまった、やりきれなく癒えない悲しみと恐怖と絶望が重たい比重で全てのページを埋めている。
混沌として吹き溜まり、終わりの無い終わりが延々とする真っ暗闇の、どうして購う事も逃げる事もできないような分厚い不透明が降り積もるだけの情景。写真の様に鮮明で美しくさえある巧さで描かれているそれらだが、いつ見てもやはり気持ちのいい絵ではない。
透子の母親のそれ、あの最期の情景のページも過ぎる。
しかし透子はパラパラとめくる手を止めない。
それももちろん、そして全てのページの「終わり」を出来る限り残さずしっかりと目の奥にしまいこみながら、止まらずパラパラとめくる。
一番新しいページに達する。
・・・・・!?
驚愕。
ちょうど口に含んでいたアイスカフェオレにも衝撃が走り、激しく口内で揺れて誤作動。その先頭が気管に侵入し激しく咽た。
・・・っ!!!???・・・これって、これ、・・・っつうか、何で・・・!!
突然の透子の挙動を見て、映二がカップを唇につけたまま停止した。
・・・これって、こいつって・・・。
「よしざき・・・」
沈黙。
ぐつぐつと煮える分厚い沈黙。
スケッチブックの最後のページに描かれていたのは吉崎隆二の最期をリアルに描いたものだった。
確か奴は失踪中。逃走中だ。
警察の目も親族の目も誰の目も掻い潜って、一人、何処かに居る身だ。
そう、吉崎は何処か、誰も知らないどこかしらに居る。誰の守護も受けないような場所に。
もちろん、身の危険も本人にダイレクトに降りかかる場所だろう。そして、今、透子の手中にある死亡予期の画ヅラを表すというスケッチブックの、その中、最新の1ページの絵の中には吉崎のそれがはっきりと描かれている。
もちろん場所はわからないが、何処かしらの階下?・・・そう、階段の下か。
背景には階段らしき人工的な輪郭の連続が描かれている。そのような背景の情景。吉崎らしき絵の中の当事者は、頭と口のから血を垂れ流しながら横たわっている。くたびれたTシャツ姿、安っぽいズボンを身に着けてだらしなく、気の毒なくらいに呆気なく血液らしきものを吐きながら眼を見開いたまま静かに横たわっている姿。
「探さなきゃ・・・!」
透子は即座に席を立った。
吉崎の、動向やこっから先とか色々の過去の事なんて、いやもうむしろ勘弁してくださいって感じではあるのだが。
いや、でも・・・、映二の死亡予期のスケッチ、そう、死亡の「予期」のスケッチなのだ。あの少女の時の様に、まだ微々たる「生」の可能性はある。
「生」の可能性があるなら、罪とか、キモいとか、ロリコンとか、あ~もう!!面倒くさっ!
そういう半端な付加価値なんて通り越して、
とにかく繋げたい。繋がなければ。「継続」しなければ。したい。とにかく、それからだ。先のどうこうはそれからだ。
透子の中にストレートな熱と動機が噴出した。
しかし、席を立って奮起した透子はふと、思った。
何故、映二はあの少女の一件の時の様に、スケッチブックをとって拝見した私に最新の吉崎の、そう、リアルタイムで描いた死亡予期スケッチを描いた事実を告げなかったのだろう。
「・・・ねえ、これ、いつ描いたの?・・・どうして、さっき言わなかったの?・・・ってか、もしかして、もう・・・手遅れ・・・?」
透子が聞く。
死亡を予期し、それを探し、どうにもならない結論を向かえた情景を前に幾多と落胆してきた映二だから描いた死のスケッチが逃亡犯の吉崎だとしても、きっとあのボブカットの女や少女の時みたいに出来る限り探すだろう、それでいてそれがもう間に合わなかった悲しい結果であったのなら、口に出さない事もありうるか。そこにはこれ以上他者、もちろん透子をあまり巻き込みたくないとする配慮があるのかもしれない。
映二は、氷点下の温度を携えた空虚な穴を顔面に浮かべ、冷たく停止したままだった。
そして答えた。
「・・・ええ、もう手遅れです。・・・手遅れにしないために、僕がそうした。・・・そうする事を選ばずにいられなかったんだ。」
―――続!
Posted by 芙美子 on 10月 22, 2008 | Permalink
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コメント
彷徨える死生観を縫い合わせる少女の帯と花火の対比。
もうこの企みだけでもガツンドスンとぶん殴られて
あちこちタンコブだらけになってしまい
ここんところ知恵熱を出している葦野です。
透子と映二の視度の差とかまできちんと映像言語化されていて
最初水晶硝子越しに見えていた物語が
どんどん網膜に立ち上がってくるので
もはやテレビを見る時間なんて不要だぁ
これはブログを読んでいるんじゃなくて
読書っていうもんだぞー
と叫んでしまいそうです。
ずいぶん前から凄い凄いと持ち上げてきましたが
もはや持ち上げるどころか押しつぶされて
よっちゃんのす漬いかか阪神デパートのイカ焼き
のようにペシャンコ状態になってしまいました。
この上怒涛のエンディングになだれ込むとなると
どうなっちゃうんでしょうか( Д) ゚ ゚
おでこに貼る8時間冷却の冷えピタを準備して
ヨシザキの死線を巡る話の続きをお待ちしております。
投稿: 葦野 | 2008/10/27 22:27:14
これだけでも十分ショートショートとしていけそうですね。
いつブログ読んでも詩的なところもステキなのですが、こういった小説仕立てもなかなかステキです♪
投稿: 健康診断 | 2008/10/27 14:02:12
お~
こんな手ごたえのある
読み応えのあるブログは初めてです
いつか、本になるんでしょうか
書き留めた原稿を分割して
毎日連載みたいにしてみたらどうでしょうか
芸能リポーターの人たちとか、読んでんのかなぁ
投稿: トレッサ | 2008/10/26 23:45:18
続き、続き。。
早く見せておくれよ。。
投稿: 雪〇 | 2008/10/24 22:04:01
こ、これは大作ですね。原稿用紙にすると何枚になるかな?
投稿: 好きだ好きだすき焼きだ | 2008/10/24 7:32:27
うわぁー凄すぎる!
ストーリーに吸い込まれちゃう感じ。
もう最高ー
ちなみに、ホンコンのファンなんだけど。
次回待ってますー
投稿: すごいぞ | 2008/10/22 19:09:53