ココログ ログインココログ登録お知らせ

« ピンとキリは一緒にこねこねしてぺってしたらきっと美味しい味噌汁になるんでないかい?って思うのだけど。 | トップページ | EVER AIR@(継続) »

2008/10/16

EVER AIR@(前)

Air

失う恐怖を全部捨てられるんだ
ここにきみがいるのなら。
亡くしたものすら背負えるんだ
ここにきみがいたのなら。

いたい、こわい、なみだ、けもの、きょうふ、こどく
忌むべきものは続くだろう、僕らは成す術もなくいくだろう。
それで、どうして、なぜ、どこ、もういやよ、なんも
否と不条理は続くだろう、僕らがおとす真っ暗な影のなかで。

でも僕らは止まれないままだろう。
そう僕らはたぶん選べないんだろう。

たぶん理由は儚きもの
たぶん意味なんてないね

くりかえしながらいくだろう、たくさんの不透明と僕らのほんとうとを。

でも僕は止めたくないと思うんだ
僕はいま閉じたくないと思うんだ

その理由は相変わらずわからない
でも、ただ今、ここにいるのなら
そう、ただ君がここにいるだけで

いたい、それで、こわい、なぜ、なみだ、どこ、けもの、きょうふ、もういやよ、こどくの何も無し。

ねえ、それでも生ける気がするんだよ
無数のそれらにたったひとつきりの
ここにいるのなら
無数の先の中、たったひとつきりの
きみがいるのなら。――――

―――幼かった日、夏の終わり、頻繁に急な夕立があった。雷が真っ青だった空と真っ白な雲とを荒々しく轢きちぎると、世界が灰色に染まった。凶器の様な雨粒は直撃すれば刺さりそうな勢いで一斉に落ちてくる。頻度を増していく雷鳴と光、激しく落下してくる雨、それは何か絶望的に恐ろしく得体の知れない何かを連れてくるようだった。または、追い詰めた非力な獲物に少しずつにじり寄る、餓えて殺気だった狼の様にも思えた。
一人で留守番をしていた夕立の始まりにはいつもそんな逃げ場の無い恐怖に、心身全体が包まれた。
恐くて、恐くて、死んでしまいそうに。その感覚は容赦なく時に残酷であって、またそんな一片を垣間見せる無垢な子供みたいに、どこまでもどこまでも残酷なまでに無限な透明さでもあった。


――――――――目が覚めたら汗だくになっていた。・・・違った。ベランダに面した窓の、すぐ下の床上で転寝をしていた為に、網戸越しに吹き込んで来た突発的な激しい夕立のせいで顔面と上半身がずぶ濡れになっていただけだった。透子はむくりと起き上がり、全身に走った鈍い痛みに顔をしかめた。
床上に何も敷かずに眠りこんでしまった事を激しく後悔した。身体の方々がビリビリと痛い。
2、3日前からなんとなく面倒くさくて繰り返し使用しているタオルは雑巾みたいにヨレヨレに疲れきっていたが、構わず這う様にして椅子から落ちたそれを拾い上げ頭や顔を拭きながら窓の外を眺めた。

何時間くらい眠ったのだろう。ずいぶん前に電池の切れてしまった小洒落た掛け時計は、相変わらず本人の死亡時刻であったのだろう8時40分を示して沈黙している。唐突な夕立のおかげで尚も薄暗くなった室内で透子は頭にタオルを乗せたままペタリと床に座った。外界を四角く切り取った窓の中では雷が灰の空を割って激しい雨風を乱射している。窓に叩きつけられた雨の亡骸がいくつも折り重なり、あっという間に滝の様に流れ出していく。しばらくそんな光景を無心で眺めた。

ずっと昔の様に、混じりけの無い透明度の高い感情、「死にそう!って感じの漠然とした、ただ単純に、こわい!」というのであろうか、とにかくそんな感じの素直な感情は湧かない。幼い頃は一人きりで見る窓の外の嵐がそんな風に、ひどくひどく怖かったのに。今ではそんなストレートな「こわい!」という感情はおろか、喜びとか、悲しみとか、嬉しいとか、幸せとか・・・そういうストレートな感情全部が「こわい!」というのと同じように灰色に鈍っている。

24歳にもなったのだからそれくらい当たり前なのかもしれない。しかし成長による理性の構築や経験の積み重ねによって色んな事に対して粗方の免疫が出来て強くなったというのとはまた別に、何かもっと単純かつ透明で、元々備わっていた自然な何かが薄まっていってきている。そしてその上に灰色に濁っている、不透明で分厚くて重たくて、拭いきれないモンがだんだん覆いかぶさっていく。蓄積していく。その不透明なモンは、まるで身体に走る鈍い痛みがなかなかとれずにドロリと神経を侵食して停滞しているようで、これといったはっきりした根源がわからないタチの悪い不快さであって。

最後に人と話をしたのはいつだっただろう、・・・確か、4日前、いや、会話をした訳ではないな。
久々に電源を入れた携帯電話に残っていた留守電の声を一方的に聞いただけだ。今ではぼんやりとしたパーツ程度の顔の印象しか思い出せないが、数少ない知人の中の一人の声。それを聞いたのが最後だ。やべ、会話とかしてないや。

ほんの一月前にリサイクルショップのアルバイトの口を失ってから、今は自宅アパートから歩いて10分程にあるマンションの管理室で番をするという極めて地味な仕事をしている。勿論それだけでは生活が成り立たない為、週に一度だけ知人が勤めるショットバーで時給を頂戴している訳だが、その店自体も自宅から徒歩20分圏内である。ほぼアパートとマンションの管理室との往復生活、時々遠征。単純な動作の連続。教え込めば猿でも出来そうだ。

そう、可能な限り、外部と、人間と関わらずに生活を成り立たせる方法を模索した結果、そうなったのだ。
面倒だった。出来ないのだと、そう思ったのだ。
それらと関係を構築し、継続していく事が。暗中模索しながら、一喜一憂しながら、自己嫌悪と勘違いと腹の探りあいのちくちく、仮面みたいに笑う事、知りたくもない事を知っていく事、何もかもの一つ一つが。
それは些細な事、当たり前の事のはずなのに、とにかくえらくしんどいのだ。
当たり前の事がえらくしんどいっつうのはかなり辛い。
そんなわけのわからない事実自体にすら途方に暮れてしまう様な非力な自分にですらしんどくなってくる。

例えば酸素を吸って二酸化炭素を吐くとういう当たり前の、基本中の基本の動作ですらに、冗談抜きよで息切れするみたいなものなのかも。
最低限のそれにすら息切れして、途方に暮れてしまったら後にはどんな可能性があるというのだろう。どんな、なにがあるというのだろう。ここに、この私に。

拭えない不快指数はマックスで。そんな絶望感や無力感が混沌と降り積もり、そしてまた非力にも情けなく途方に暮れる。その繰り返しだ。
一体何故こんなにもしんどいのかよくわからないし、よくわからないのにしんどいと言うのは、ああ、そりゃもう本当にやりきれなくて情けなくて、また途方に暮れる。って、さっきもやったかこの反復思考。

絶望と無力を絶え間なく掘り下げていくのだ。
陸一つ無い夜の海に一人きりでぷかぷか漂っているみたい。しかもいつまでたっても夜が明けない。あー!夜が明けない!こんちくしょう!

鋭敏で素直だった感覚が薄れていく。空けない夜という眼前の現実から逃げるように、その絶望からこの身を防衛するように。
外部と作用し合う事が、とにかくしんどくて、痛くてよくわかんなくてたまらない。
だから保守しようとする。するとどんどん視界も感覚も歪曲していく。

もし・・・、まっすぐに突っ込んでいけば無傷では済まないと知っているからそうするのだが、
それらの繰り返しの痛みと、その度に鎮静剤を打つ様な無意味な防衛。そのうちに外部との交わりや関わりがまるで骨折り損のくたびれもうけみたいに思えてきてしまう。くりかえすだけのそれらにただ疲労しか得られずにいるからだ。無論、当たり前の事だから、誰のせいでも何のせいでもないのだけれど。だからこそ、垂れ込めるしんどさをどう処理する事も出来ず、途方に暮れるしかないのだ。
そしていつからか、一体なんでこんなにしんどい事を、ただ繰り返してしまうんだろうって、そう思ったのだ。

だからそれらを破棄した。ただ必要の無いものを捨てただけだ。自分には無駄と思った事を、しんどいって思った事を省いた。どうにもならんよって事をどうにかするのを辞めただけ。
そうするとただ「生きている」という事実だけが残った。空っぽの容器みたいに、ただ在るだけの不動の事実が。
空っぽの容器は底が抜けていて、誰も皆、必死になって容器内を満たそうと色々なモノを詰める。
が、底が抜けているので一行に満たされる事はなく、ふわふわと灰色の疲労だけが満ちていく。

生きているって、死ぬまでの虚しい延命処置に過ぎない気がする。健気で儚くて、でも虚しい応急処置に過ぎない気がする。

リサイクルショップの求人募集への応募は、そんな無気力な期待から穿り出した動機だった。
一応は「販売・接客・女性歓迎」という名目ではあったのだが、実際の内容は透子の希望待遇をほぼ満たしていた。というのも、店で実際にやっていた事は「待機・読書・掃除・単純な社交辞令」くらいのものだったからだ。
店の佇まいは昭和の時代の商店の様な古めかしい造りの日本家屋で、全体的に埃っぽく、年季の入った入り口の木枠の引き戸は外部からの訪問者をお世辞にも歓迎しているとは言いがたい疲れきった老人の様な雰囲気を醸し出していた。当然来客はほとんど無く、店の位置も若者で賑わう古着屋や雑貨店、カフェやバーのあるメイン通りに面している訳ではなく、そこから少し細い私道に入ったマニアックな場所にあった。
わざわざ人が通らないような、忘れられた道の脇に。それに店内に並べられているリサイクル商品やアンティーク家具や照明器具も、街のメイン通りの8割を占める購買者である若者達が、お金を出してまで買おうなんて到底思わない様な、よくわからない価値がついていて、なんだか色気のないアンバランスな品々ばかりだった。極たまに、ちょっとお洒落で、レトロ趣味のお客が食いつきそうなレトロちっくなチェストやクラシカルな照明器具なんかが出現したりもするのだが、そういう商品はほぼ全てを、マニアックなアンティーク趣味を持つリサイクルショップのマスターの吉崎と言う未婚の中年男がそっと私物として店奥にしまいこんでしまう為、客寄せにすらなる暇もなく、殉職していった。
そんな訳でたいてい店には透子が一人か吉崎と二人きりしか人がいなかった。

来客がほぼ無いという事は透子にとっては大変好都合ではあったのだが、伴って収益もほぼ無いはずのこの店に何故アルバイトの店員を雇おうとしたのか、最初は些か疑問であったが、中年男の吉崎が溺愛している萌え系アイドルタレントの話や軽いセクハラ発言にさえ慣れてしまえば仕事は楽だったし、何かと人の出入りが激しい流行りのカフェや色鮮やかな日用品の並ぶ雑貨店でポニーテールなんぞしてニコニコ愛想を振りまきながら就業する事を思えば透子にとってはよっぽどベストな食い淵繋ぎであった。
しかし、そんな過も可も不可もないまあまあの予定調和と平和との日々は急に幕を閉じた。夏の夕刻を襲撃するゲリラ豪雨の様に。

透子がいつもの様に夕方近くにならないと現れない吉崎に変わって店を開け、正午過ぎだというのに薄暗い店内でオレンジ色の照明器具のぼんやりを見つめながら、何冊かレジ台に置きっぱなしにしてある文庫本に手を伸ばそうとした時、急に店の戸がガラリと開いた。予想外の来客に驚いて顔を上げると地味なスーツ姿の男が二人、店内に入って来ていた。

「あ・・・いらっしゃいませ」
久しぶりに発する接客用語に少々舌が支えた。男の一人が軽い会釈をしながら黒い何かを提示しながら言った。警察手帳だった。
「失礼、吉崎隆二さんのご親族の方ですか?」

「あ?・・・いえ、アルバイト・・・ですけど」完璧に不意をつかれていた透子は間抜けに応答した。

「そうでしたか、失礼しました。私共、○○警察の者です。唐突にすみません、実は・・・」

男は園田と名乗った。目が漫画かなんかで描いたみたいに見事に細くて、おだやかそうな印象だったが、そんな印象とは裏腹に伝えられた事実に透子は驚愕した。
吉崎が盗撮、及び迷惑防止条例、その他もろもろの容疑で連行されたらしい。
何でも今朝がた、通勤ラッシュの電車内で女子高生のスカートの中身を盗撮しているのを現行犯で捕まり、
その後の聴取によって、近隣の公園のトイレやスポーツジムのトイレ等に盗撮用のカメラを仕込んでいる事が発覚。撮影したテープや写真を大量に保管しているらしく、転売の事実もほのめかし始めたとの事で園田達が家宅捜索に来たという訳であった。

「とうさつ・・・ですか・・・。」透子が腑抜けた様に無表情で呟くと、園田はそんな反応の薄さに少し拍子抜けしていたがすぐに言葉を続けた。

「それでですね、その、申し上げにくいのですが、この店のトイレにもその、カメラが設置されているとの事で・・・。」

「・・・え?!」まるで現実離れした、○○サスペンスみたいな展開に置いていけぼりにされつつあった透子の意識が一気に現実に引き戻された。

「それ・・・本当ですか?」

透子が眉を顰めながら聞くと、園田は少々気の毒そうな顔をして
「はあ、まあ彼がそう自白していたもので・・・、詳しい事はまだ解っていませんが、最近近隣で発生している痴漢被害や幼女へのいたずらの件での容疑の疑いもありますし、諸々を含め調べさせて頂きたいのです。勿論押収しなければならない物もありますので、今日のところは店を閉めて頂けますか?」と淡々と言った。

「・・・わかり、ました」
透子が呆気にとられながらレジ台を立つと、園田ともう一人のスーツ姿の男はは気の毒そうに「お気持ちはお察しします。ご協力ありがとうございます」と一礼した。
園田達に店を預け、私物の文庫本をカーキ色の地味なリュックに詰めると、透子は追い出される様にして店を後にした。

その後、間もなく店は閉店。園田は逮捕された。執行猶予つきではあるが、痴漢、盗撮、その他諸々の卑猥な所業が出るわ出るわ。

店のトイレには案の定、盗撮用のカメラが仕込まれていた。店にはトイレが一つ。
謎は解けた。ピキーン。求人募集にあった台詞の一つ「女性歓迎」の本当の意味が解った。世田谷界隈にふらふらと蔓延っている若者、そう若い女をアルバイトで雇い、ちゃっかり自分のお膝元で手軽に盗撮を実行する為だったのだろう。
考えてみれば、明らかに少女を標的にした卑猥な犯罪を誘発せんばかりの萌え~な嗜好で、鼻息荒く「どこでそんなステータス情報仕入れたんですか」みたいなアイドルとかのマイナー情報まで鼻の下を伸ばしながら雄弁に語る変態なのだから、その容疑は納得できなくもない。
やたらと透子の男性関係の話を掘り下げたり(無論、完璧にスルーしていたが)、服装や身体を舐める様に見ていた吉崎だから、充分在り得るっちゃあ在りうる。

「・・・しんどい。人間マジしんどい。がつがつがつがつ。なんで?ってか、なんでそんなに他人に対して欲情するの?求めるの?期待するの?夢見ちゃうのよ?」

雨粒の亡骸の流れ行く様を目で追いながら、透子は思った。疲れる。人間は。とにかく疲れる。
関われば、重なり合えば、まるでそこから腐った膿の様に嘘とハッタリと厭らしい欲が流れ出てくる。
そのドロリとした厚ぼったいヘドロ状の膿に押しつぶされて呼吸は苦しくなってくる。
だから、しんどくない様に、リスクを最小限にする為に、疲れて呼吸困難になる危険のある重なりあった部分を最小限に抑えられる様なポジションでの食い淵を見つけたというのに、またかよ。
またなのかよ、まだなのかよ。

せせこましく隅っこの方で息を殺しながら、死ぬまでの延命処置みたいな「生」を騙し騙し続行しようとしている、みそっかすみたいなやつ、私みたいなのまでもが、そんな轍から逃げられない。
どうして?
どこまで続くの。この呼吸困難は。しんどいよ、もう・・・。


「嫌だな」透子は一人呟いた。

「嫌だ、嫌、いや。・・・やだやだやだやだやだぁぁ・・・」首から上でうなだれた。


幼い日に一人、嵐の最中に取り残された日の事。ただの留守番だったけどとても怖かった。忘れられない恐怖は今でも・・・。
急にどこかへトンズラした父の事。酒場で擦り切れながら働いて、帰宅してから薄暗い朝方まで酔いつぶれながら泣いていた母の事。光が見えなくなる程に厚みを帯びていった孤独と不安と細かな絶望感と対人不振の不安定の連続。
剥がれゆく雲母の様に擦れていく目をして、母が言っていた。

「透子、お母さんはいつまでも透子のそばに居られないかもしれないけど、透子はちゃんと一人で生きていける強い子にならないと駄目よ」

透子が15歳になったあくる日、母は死んだ。自殺した。酒場で知り合った男に酔わされたまま、共に心中し母だけが死んだ。酔いの醒めぬまま。車の中で発見された母は一酸化炭素中毒で、傷ひとつない遺体になっていた。車中でのガス自殺だった。母の死に顔はほのかなピンク色に染まった、なんとも言えない幸福そうな死に顔色だったという。ガス自殺特有の遺体状況だったみたいだ。

一方、男は一命を取り留めた。男は透子と母が暮らす借家にその後ほぼ入り浸っていて、退院後、透子が18歳になるまで透子と生活を共にした。意外にも透子に対しては優しく、良心的に接してくれた。形振り構わずまるで透子の為だけに働き、透子を惜しみなく愛し、そして必要なだけの色々を成り立たせてくれた。

透子は男を受け入れ始めていた。その男を好きだった。恋愛とかそういうんじゃなくて、単純に好きと思った。大切と思った。そして失いたくないと思った。事実上の父親ではなくとも、本当の父親の様に、自分の一番近くに居てくれる存在であったから、そして透子を好きといってくれたから。大切にしてくれたから。
しかし、男は透子が高校を卒業するまでの間、身を粉にして透子の面倒を見て、透子の傍に寄り添い、透子の信頼をたっぷり買い占めてから、透子が高校を卒業するとすぐ、あっさり首を吊って死んだ。


もしも万が一、母か男かのどちらかが生き残った場合、透子が辛うじて高校を卒業するまでの間、透子の面倒をみる確約でも交わしていたのだろうか。

男が愛していたのは母親だったんだろう。透子はそう思った。
透子は大切なんかじゃなかったんだ。透子じゃなかった。私は・・・どこよ。

男は、母親の娘である透子に、母親との命賭けの約束をくくりつけて、それを原動力として透子に尽くし、そして死んだ。自ら死んだ。最期の最後まで透子の為ではなく、透子の母の為に生きて死んだんだ。透子は、誰の中にも居なかった。

親も、誰もかれも結局は透子を見つけて見つめ続けなかった。たくさんなんていらない。たったひとつきりのそんな事実が欲しかった。たったひとつきりで構わないから。
捨てられた犬の様な笑みと味噌汁の上澄みみたいに味気ない優しさだけを遺して、透子以外の誰かの為に、いい訳みたいに透子を分厚く撫でながら、透子じゃない誰かの為に。
透子を理由にしながら、経過して消えるだけの理由と言い訳にしながら、透子の実体などだれもかれも認めないまま、見つめないまま、

皆、死んだ。見事に皆、消えていった。


「・・・。私だけのもんだ。誰にも触らせない。・・・失くすのは、嫌。・・・私は私だけのものでいいんだ」

ろくに衣装も揃えられず、なんとか押入れから発掘したそれなりのフォーマルな服装で迎えた成人式の日、透子はそう思ったのだった。

暫くして夕立があがった。ほとんど太陽を覆いつくした西の空が、ゆっくり瞼を閉じて、夜を誘い出していく。
透子は腰を浮かすのもおっくうな程、だるい身体で床を這いバスルームに向った。シャワーを浴び、ゆったりとしたボロいジーンズと灰色のキャミソールに着替えると、マルボロを一本加えて火を付けた。深呼吸をする様に深く煙を飲み内蔵全体にいきわたさせる様にしばらく息を止め、長く吐き出す。ぼんやりとした意識と眼前がやっとクリアになってくる。錆付いた夜型スイッチが気だるそうにONになった。しばらく目を閉じる。
身体がなんとかまともに動くようになり、やっとベランダに出たのは午後7時半すぎだった。比重の重いコールタールの夏の夜は藍色に世界を染め上げていく。見渡す住宅街は街の青白い無表情な街灯の光と、家々がぼんやり内緒話みたいに灯すオレンジ色の光とを交互に受け、電信柱や家々のシルエットが薄く複雑に縁取られながら切り絵の様に浮かび上がっている。
フィルターまでしっかりと。深い深い、不快な深呼吸をすると、眉だけひいて、ろくに紅もささずにボサボサの長い髪の毛も放置したまま、ブラックジョークが満載の短編ノベルの文庫とタバコと薄い財布をバッグに放り込んで、部屋を出た。バイト先のマンションの管理室に向って歩き出す。

チラチラとふらつきながら青白い光を落とす街灯の列に沿って歩く。いくつもの影が薄く浮かび上がってからつま先で消えていく。家路を急ぐ一家の大黒柱や、全うに朝から夕までの就業を終えたOLの帰路を逆走していく。ほとんどの人々が一斉に目覚め、一斉に活動し、一斉に帰るべき場所とは反対に向って。暗闇の中の煌々に向って。

透子は常に一人、そんな逆を走って向うのだ。社会に於いての最低限の規約を満たし、それぞれにある程度の安定した立場と権利を、さも当然のごとく所持しているであろうそんな多くの人々の背中を時折、言葉もなく振り返りながら。
当然であるはずのそれすら満足に満たす事も出来ないままの透子は、そんな轍の中で不安定にゆらゆらと遭難したまま、細々と逆走せざるを得なく這う様に生きている。

そんな日々がただ永遠に続く気がした。死ぬまでずっと。生きているのか死んでいるのか、どっちでもさして変わらない様な、限りなく死に近い生が。死んでいるみたいな生が。煌びやかな繁華街や美しく整備された街から離れた、薄暗くて汚い路地裏の石畳の上で、這い蹲りながらわずかばかりの小銭を拾う様な、こんな毎日がずっと続く。そしてきっとそんな現状を覆す術はきっといくらでもあるのだろう。

でも、術はいくらでもあったにしても、透子にはそんな術を行使する余力が無い。
少し以前、少ないながらも何人かは居た知人達、今ではほぼ見る事も無くなったTVの中の評論家達、
夜になれば接待娘や風俗嬢の尻ばかりに金をはたいている煩悩のくせに、少し人より人生が長いだけで優越感に浸って偉そうに諭すおっさん達、皆それぞれ口を揃えて回りくどく美しき術を説くだけ。漠然とよくわからない明日以降を、それはもう頭の下がる程に綺麗に指差してから、只、手を振って消えるだけの者達。美しく構築されたそんな事なんて粗方は解っていたんだ、いや、わからなくてもどうでもいい事だとも思ったし、だってそんな所まで追いつける様な綺麗なこれじゃなかったから。完成しているえらい私ではないのだから。

欲しいのはここの、外から鳴り響く音じゃない、答じゃない、それらを実行したり見出したりする、ここの、内の音、声、私からの力なんだ。そしてそれは誰か他から享受できるモノではないというのを知っている。自分でなんとか調達するしかないモノだと解るんだ。

しかし、現に遭難し続けている透子にとっては、這い蹲りながら小銭を集めて辛うじての延命処置を図るのが正直精一杯で、とてもその様な確固たる力や明日から先の道などを切り開いていく力が無い。あっても上手く行使できないだろう。

そういうのを外部に求めたところで、説教されるか、薄い嘘っぱちでかます愛想笑いの連続か、はたまた興味も関心もないはずの近況や自論を虚しくぶつけ合うだけか、大体がどれかになるのは目に見えている。
そこに、意義も求むるモノも見出せない。動機も感情も動かない。麻痺しているのか、本当に必要ないからなのだろうか、・・・・。
どちらにせよ多分、常時、外部と関わりあうのは無駄に思える。
嗚呼、関係していくのは無駄・・・っていうか、私に無理。
出来る限りそれらに使う力を最低限の延命処置に宛がっていかなければ、持ちこたえられない。無理やりそうすれば、ここのほんとうの中にある、超最低限の何かが磨り減ってしまう気がする。
・・・でも、何故、一体ほんとうの中にある、何を守ろうとしているのだろう。

もう物言わぬ大人しく消沈したこの薄い輪郭ですらも、薄暗い路地裏の闇に瞬時に見失いそうになってしまいそうだというのに。


黙々と歩き始めてから10分もしないうちに、環七通りのいっ歩手前の私道に面したバイト先であるマンションに着いた。大手の建設会社が各都市や都内のベッドタウンに展開している整備の行き届いた小奇麗なマンションである。夜の間中、エントランスの入り口付近には煌々とスポットライトが点いている。

大抵の部屋が1Kで、1階と最上階の14階にだけ2部屋ずつ1DKの部屋がある。
入居者はそこそこの収入のある独身のサラリーマンやOLが殆どを占め、あとは水商売等をしている女達が少々といったところであろう。
管理室の鍵を開け、明かりを点ける。建物の佇まいとは対照的な殺風景な3畳程の室内には1ドアの冷蔵庫と、エントランスに面した小さな引き窓のすぐ傍にあるデスク、非常の際に鳴る、警備会社と連携プレーをする為の電話、あとはアルミ製の棚があるだけだ。すぐさま換気扇のスイッチを入れ、昼間に在室している管理のおっさんが取り付けたのであろう座布団付きの椅子に腰掛けて、タバコをくわえ、点火。煙が空中でさ迷いつつも換気扇の取り付けられている天井の格子の中に吸い込まれていく。
タバコの量が増えたな、透子は天井の4本の蛍光灯の明かりを眺めながら、そう思った。
日本語を発する機会はごっそりと減ったが、反比例する様にタバコの消費量が増えていく。口寂しさを食で補う選択肢を、元々胃の小さい透子は選ばなかったので必然としてそうなったのだ。管理室は夜間、唯一外界であるエントランスに面した引き窓にはカーテンがひいてあるので、基本的にはあまりよろしくないのだが透子は大抵1箱分のタバコと2冊の文庫を此処で消費する。夜は長い。終わりの無い絶望の様に、黒々と深く垂れ込める。

椅子に座って仰向けに寄りかかりながら、透子がタバコをフィルターまで吸いきろうとしていた時、エントランスの自動ドアが開く音がした。ヨレヨレに疲れきった社会の中での先鋭が一人帰宅したのだろう。耳の端でその物音を聞きながら透子が持ってきた文庫を取り出そうとバックに手を伸ばした時、管理室の小さな引き窓を叩く音が聞こえた。

「来客?」珍しい展開に驚いたが、一応これもバイト、仕事のうちだ。引き戸を開ける。

「・・・どうかしましたか?」
見ると、ひょろ長くて薄い身体をして、青白い全体を持つ青年が何やら只ならぬ感じの神妙な顔つきで立っていた。と言っても、表情や目元は伸びきってざんばらな前髪のうっそうに隠れてよく確認できない。

「・・・あの、ここのどこかの部屋に若くて、髪の毛が金色で、多分短い女の人、住んでませんか?」

青年は口頭一番、不躾にそう言った。
「は・・・。金髪の女の人・・・ですか?いや、住んでる人の事はちょっと・・・」
透子が寝起き直後に極論の二者択一を迫られたみたいにおろおろとしながら、それでも訝しげに答える。
すると、青年は「そう、ですよね・・・」と言って視線を落とした。

「あの、ご用件は?」
怪しい者であれば、すぐに警備会社に連絡しなければならない。これも仕事のうちである。

「・・・いえ、あの・・・」
青年は元々伸びきった前髪の奥にある確認困難な暗い目元に更に暗い影を揺らしながら地味にどもった。
落ち着きが無い。よく見えないが明らかに動揺している眼。いや、全体的に不審だ。
怪しい。透子は瞬時にそう感じた。人が嘘をつく瞬間はかなりはっきりしている。特に男はわかりやすい。透子はそういう察しはいい方だった。知りたくもないが。
久々に微々たる正義感というポジティブ系の感情が芽生える。非力な身ではあるが、色んな感覚が麻痺っているせいか透子は恐れを忘れているらしく、ぴしゃりと
「警備のものを呼びますか?」と言った。
青年は一瞬動きを止め、ゆっくりと透子を見つめた。張り倒せる相手かどうかを吟味しているのだろうか、透子の全身を緊張の針金が縛り上げる。

沈黙していた青年は、ふっと何か魂とか何かしらのストッパーが弾かれたみたいにして遠い目をしながら透子の顔面を見たまま言った。

「・・・死ぬんです・・・」

「・・・・・は?」

何を言っているんだこの男は。他に相槌の打ちようは無かった。「は?」という言葉が通常の発言の様に透子の意識と声帯を経てからではなく、顔面から煙の様に吹き出た。呆けている透子の顔を見たまま青年は表情を変える事なく続ける。

「死ぬんです。金髪の髪の短い女が。多分・・・今日、ここで」

青年の吐息は酒臭い訳じゃなかった。酔っ払っているという訳では無さそうだ。精神障害者か?薬中毒者か?なんなんだアンタは!?

「警備の者を呼びますから!」透子がそう言って非常用の電話に手をかけようとしたその時、建物の裏手の方から「ドッ!!!!」と言う、鈍く響く様な、大きな音がした。一瞬の音だった。

青年は電話をとろうとしていた透子を瞬時に止めようとして腕を窓に突っ込みかけていたが、その音を聞いた瞬間、暗い目元の奥にある眼球を見開いて動きを止めた。3秒程空間が静寂に満ちた。
透子が眉間に皺を寄せて窓に面した引き窓からエントランスに首を出そうとゆっくり腰を上げようとしていると、青年はそれまでの神妙な面持ちから一変して、血の気の引いた様になり、半分突っ込んだ腕を戻しながら、
「多分、もういいです。間に合いませんでした」と俯いた。

「・・・あの、間に合わないって・・・?」
透子が未だ警戒しながらも、電話から手を離し、尋ねるのを聞き終わらない内に、青年はそれまで管理室とエントランスの間に湧いていた戦々恐々とした空気を吹き消す様にくるりと踵を返して入り口の自動ドアに向っていった。
「ちょ・・・」
透子はそう言うと同時に椅子から立ち上っていた、そして管理室を出て青年を追う。
青年は振り返るでもなくマンションの裏手に向って歩いていく。透子はそれに追いつくと正面に回った。
「間に合わないって、何が間に合わないんですか?」
どうしてだか、何もかもに無関心になりつつあるはずなのに、がつがつと青年に詰め寄った。あの音がした瞬間に見た青年の、まるでこの世のモノではない様な何かを見てしまいました、という妙に重力のある反応と表情がいやに引っかかっていた。
青年は透子の顔から下まで視線を上げたが、そのまま黙って透子の横を通りすぎて黙々とマンションの裏手に向った。透子は連鎖反応したみたいに青年の後に続く。
マンションの裏手は全ての部屋のバルコニーの真下にあって、整然と形の良い石畳が敷き詰められているスペースである。周囲は囲む様に植えられている植木とその根元に備え付けられているライトが煌々と点いている。青年は迷う事なくその裏手のスペースへと向う角を曲がる。透子も黙って続く。

マンションの裏手の敷地、石畳の上に女が寝ていた。口と頭部から血を吐きながら、金髪のボブカットヘアーの女が寝ていた。

「やっぱり・・・」

青年はその光景を見つめながら小さく呟いた。

状況が飲み込めないまま呆然と女の横たわる様を見ている透子が口を開く。

「死ん、でる・・・?」

「・・・死んでる。間に合わなかったんだ」

青年は表情筋を微動だにせぬままに答えた。
短髪で金髪の女が死んでいた。飛び降りたらしい。叩きつけられた女の全身は力なく石畳にへばりついている。
青年がついさっき只ならぬ雰囲気を醸し出しながら訴えた通りの惨状、女だった。
透子も青年も何も言わずに只、それを見つめていた。刻々と刻んでいく時間の確約を静かに破る様に、生ぬるい夏の夜の、名も無き一片に重く滴る「死」という事実が静かに充満している。

「救急車・・・」透子が言う。

「いや・・・警察です。」
青年はぽつりと答えると、踵を返し足早に夜闇の果てに向う。
細かい雨が降り出してきた。途端にアスファルトの湿った匂いが立ち込めてくる。

「どうして知ってたんですか・・・?」青年のあまりにも無情すぎる反応と所作に連鎖する様に、思わず聞いた。
青年は歩みを止め、背中に諦めた様な脱力感を浮かべた。

「解ってしまうんです」

「え?」

「解るんです。死ぬ人の事が」

青年はゆっくりと振り返った。雨に濡れて、余計に重たくなった伸びっぱなしの黒い髪に覆われた顔の表情は相変わらず確認困難だが、無表情とか、いやそれ以上の絶句。
絶望的な雰囲気で、極めて怜悧で青ざめた印象を醸し出す空気を発している。くたびれた灰色のTシャツから伸びる左の腕あたりは、何やら鈍く、黒っぽく汚れている。

降下の頻度を次第に増していく雨粒に気がつかないまま透子は呆然と佇み、青年を見つめいた。

「私の事も?」

口からこぼれ出ると言うのはこういう事だろうか、透子は何かの感情の笊から、抱えきれず溢れ零れた果実の様にそう発した。意図的な発言ではなかった。何かに押し出される様な衝動に駆られた。
背を向けて濡れた夜闇に溶けかけていた青年の肩がぴくりと動き、止まった。
随分まとまって落ちてきていた雨粒に濡れた黒い前髪が、青年の額にまとまってぺたりと張り付いて、顔色の悪い顔面を更に気味の悪いものにしている。纏まってぺたりとはりついた髪の間に見えた眼は一重瞼だが、眼光は鋭く、強い。ひん剥いて透子を捕らえる。

「いや、知りません。」

青年は湿った夜闇に濡れて薄まった全身の中に唯一の鋭敏さを持つ様な、鋭利な眼光を釘付ける様に透子を見ながら言った。
蛇に睨まれた蛙の様に透子は硬直してしまい、それ以上に青年に言葉をかける事はなかった。
マネキン人形の様に雨の中立ち尽くす透子に、青年は鋭利な目元だけは残して、どこかため息みたいに疲れた空気を吐きながら言葉を続けた。

「・・・すみません。巻き込んで・・・。戻りましょう。電話を貸して下さい」

連れ立って管理室に戻る。青年の挙動や発言の端々には確かに血の通った感情の断片みたいなものが感じられた。しかし、それはあくまで断片であってそれ以外の青年を形作るそのものや中心付近、青年の挙動や動作、その発信源である場所は、ぽっかりと真っ黒な空洞みたいになっていて、そこからはどうにも救いのない絶望的な空気が絶え間なく吐き出されているみたに思えた。虚無の穴とでも銘打つべきか。

そいつのせいか青年の動作や発言や印象が、例えば恐れをを知らずに平気で生きた虫の羽や足をむしりとる残忍さを残している子供、あるいは人間らしい感情を生み出す脳のどっかしらが破壊されている人間というか、青年は人間の形をした真っ黒い穴の様だった。青年の声はどこか電話の時報案内の様に機械的であった。
管理室に戻り、青年が電話で警察を呼んだ。救急車ではなく警察だけを呼んだ。淡々としながら。
透子が救急車も呼んだ方がいいと付け加えると青年は振り返る事もなく「無駄です。」と背中で言った。

程なくして警察が来た。マンションの前でパトカーが止まると平和と静寂の下で眠りにつこうとしていた住宅街からばらばらと野次馬が出てきた。皆、不安げな顔をしながら傘を片手にして遠巻きにマンションの奥の現場の方を眺めている。人々の眼球はブラウン管や液晶画面でも張られているみたいに起こった事実を鮮明に捉えようと絶え間なく光っていたが、どこか予定調和のハプニング映像でも見ているかの様な遠巻きな冷ややかさもまた携えていた。透子と青年は第一発見者と言う事で現場で一応の事情聴取は受けたが、状況が状況なだけにすぐに加害容疑ははれて解放された。透子が気がつかないうちに青年は姿を消していた。透子はそのまま管理室に戻ってバイトの定刻まで駐在したが、あまりにも真平らで地味な日常に突然起きた出来事と青年の印象が、まるですきっ腹にテキーラをストレートで流し込んだみたいに強烈で、いつもの様に暢気に読書なんかする気にもなれず、延々と半分放心のままタバコをくわえて過ごした。


それからはしばらくまた不変で不毛な反復動作の連続の日常が続いた。7日目、透子は終日休みだった。
というのに前日、というか今朝帰宅してから随分と酒を飲んだらしく目が覚めたのは午後3時をまわってからだった。酷い頭痛、吐き気、倦怠感。透子はよく酒を飲む方だったし、週に1日だけバーで働いていた事もあったからそこそこ普通の女の子以上にアルコールに対する免疫はあったが、これだけはどんなに免疫が出来ても回避できない不快みたいだ。多分免疫とかの問題じゃないのだろう。不味くなってくるまで酒を飲むかどうかの問題だ。無論、狭い1Kの部屋の中央にある小さなテーブルの上には缶ビールの抜け殻が犇めきあっていた。透子はそれらを横目に見て更に吐き気を増しながら、ベッドから這い出てショーケースから下着とバスタオルを掘り出すとそのままシャワーを浴びた。かなり熱めの湯を浴びた。湯の一粒一粒が熱い針みたいになって水圧とタッグを組んで肌に激突してくる。はっきり言って痛い。でも熱くないと駄目なのだ。嫌なのだ。
同時に身体全体を覆いつくしている倦怠感や吐き気やなんかのドロっとした物体が熱い湯に剥がされて、細胞一つ一つが垂れ流しているゲロと一緒に排水溝に落ちていく。しかし真ん中にある吐き気と痛みと不快の元凶は以前として透子の中で強かに分厚く生き延びている。全く回復しない身体から滴る水滴を充分に拭かないままバスルームから出ると、頭からタオルを被ったままタバコを吸う。不味い。そうこうして最悪の状態のまま、大事をとる訳でもなく更に不快に自らを追い詰め居ていくと、深い霧の中でだんだん視界が開ける様にその状態に慣れてくる。回復とか改善とか、消して良い方に向くんじゃない。最悪の体調を最悪と感じなくなるまでに、ただ慣れてくるだけだ。麻痺してくるだけだ。生物の適応能力とは本当におぞましいものである。しかし、果たしてそこまでして適応する意味があるのか、そんな労力を捻り出してまで生き延びる価値があるのだろうか、透子にはよくわからない。っつうか疑問。


まだ濡れた髪のまま着替える。スキニータイプのジーンズが乾ききらない肌に支えて少し履きづらい。トップに黒いベルベットっつぽい生地で出来たミニのワンピースを着て麻の薄いカーディガンを羽織る。眉とラインだけの簡単な化粧を済ませるとヒールの低い黒いサンダルを履いて出かける。週に一日の終日オフ、透子は駅前の大きな本屋まで出かける習慣になっているのだ。
ほぼ西に傾きかけている陽の光が、闇と蛍光灯の青白い光にばかり慣れた目に容赦なく刺さる。
夏の日は長い。そして夕方も長い。伸びかけた影をひきずりながら駅に向う。15分程歩くと細い道路の向こうに大きな通りと商店が立ち並ぶ駅前が見えた。早めの帰宅をする人や学生、犬を連れた老人、子連れの主婦等、個々にそれぞれの世界を持つ様々な人々が色鮮やかに行き交っている。
淡いオレンジ色の西日に染まった賑やかな駅前の商店街を足早に過ぎると、商店街の奥にある大きな書店に入った。書店は商店街の中ではそこそこに大きなキャパを持つ店で、古本や画材や文具等の品々も販売している多機能さである。無論、透子の目的は本である。透子は本ばかり読んでいた。透子の部屋には一応テレビはあるのだがほぼスイッチを入れる事はなく、今ではコンセントが抜かれていてその切っ先には薄く埃がかぶっている。パソコンも遠い昔に知人から貰ったデスクトップのが一台あるのだが何の開拓もせずに部屋の隅で粗大ゴミみたいに場所だけをとっている。本だけが着実に増えていき、今ではその塊が一個の家具並みのスペースを占めている。特別本が好きとかいう訳でもなかったのだが、何も言わずに余計な意識をトばすには本が一番マシなアイテムなのだ。
書店の文庫コーナーに向って店内を進んでいると、少し手前にある文具コーナーで鉛筆を手にとってじっと佇んでいる後姿が居た。
あの青年だった。
独特の無機質さと妙な空気を醸し出しているのですぐに判った。思わずその後姿の前で足が止まってしまった。青年はすぐにその気配に気がつくと振り返り、まともに両目が見えないくらいに伸びすぎた黒い前髪の奥にある目を見開いた。「こないだの・・・」こぼれ出たみたいに青年は言った。青年の目には相変わらす生命力とか光とか、総じてポジティブな要素はまるでないが、何故か眼中に捉えたものに太い釘でも刺すみたいな妙な重力がある。その重力に逆らえず、透子は反射的に「あ、どうも」と答えた。まだ平日の日没前で、普通に勤めて社会生活を送っている人間ならばありえない格好を青年はしている。左膝のあたりに穴が開いたボロいジーンズ、伸びて色落ちした灰色のTシャツ。

「何、されているんですか?」青年の正体になんとなく興味が湧いたので問う。

「あ・・・鉛筆小さくなっちゃって。」青年は素直に答える。
いや、そうじゃなくて・・・。

透子が間をおいて「・・・はあ、」と言いかけると青年はまだ言葉を続けた。

「スケッチとかデッサンしてるんです、趣味で。ほぼ一日ずっとやってるからすぐなくなっちゃうんですよ。」
そう言うと青年は少しだけ笑って見せた。青年が笑ったのを見たのは初めてだった。でも、微笑みというか、曲がる方向とは逆に無理やり蝶番を押し倒して「ギイギイ」という不快な音がしそうな不器用な笑みだった。
気持ち悪い。と思った。

しかし、・・・
「絵描くんですか・・・」・・・ちょっと意外だった。
あんな無機質で機械的な空気を吐き出している虚無の穴みたいな人間が絵とか、芸術とか、そんな事に興味があったとは。そうか、腕の黒ずみは鉛の跡か。
まあ・・・、芸術家とかアート系の人間はむしろちょっと変わり者が多い。普段は死体みたいな目をしている奴がギターとか弾かせるととんでもない高速タッピングをかましたりする。周囲はそのギャップにあっとなる訳だ。

透子はそんな青年の不思議な空気に駆りたたされた。対人にそんな欲求を持つ事はかなり久しぶりである。
透子はいつの間にか青年の隣に立って深緑色の柄の鉛筆がたくさん積まれている棚を見ていた。

「時間ありますか?」突然、青年が呟いた。

意外な質問に青年の顔へ振り向くと、先ほどまでの微々たる笑みは消えていて、青年はまたいつもの様な暗くて重たい重力を携えた目もとをしていた。透子は連鎖反応みたいに「はい」と答えていた。
「移動しましょう」
青年は不動の表情のまま出口に向った。透子は文庫本のコーナーに行き着かないままに青年と書店を出た。


メイン通りからかなり外れた一方通行の道の奥の喫茶店に入った。銅製の古びた看板には「BLUE BIRD」と記されている。
青年が言うには此処の方が安心なのだという。新参者を拒むみたいなガラス窓埃っぽさと、木製の重たいドア。何処かあのリサイクルショップみたいでもある。店内にはカウンターが6席、テーブルが2つ、ピンク色の電話がレジ横にあって、カウンター内にはウイスキーのボトルが、年々も時が止まっているみたいに静かに並んでいる。客は無い。
透子と青年は一番奥にあるテーブル席に着くと、カウンターで新聞を読んでいた中年で無愛想な無精髭顔の店のマスターが注文を採りに来た。「何にしますか?」青年は透子の注文だけをマスターに採らせた。間もなくして透子が頼んだアイスコーヒーとホットコーヒー、ミルクポットが出てきた。青年はホットコーヒーに大量にミルクを入れながら「こないだの事、誰かに話したりとかしました?」と不躾に聞いてきた。

タバコに手をかけていた透子は多少ドキリとしたが、無論完璧に人と話をするという事はおろか、友人ともろくに接触しない毎日なので「いえ」と首を振った。青年はそれを見ると視線を下げてコーヒーを一口啜って言った。

「あの日僕が言った事、馬鹿みたいでしょう」

「・・・はあ。まあ、」
よくわからないがこの青年には予定調和の社交辞令や取り繕いの応答などでは絶対に対処できない気がした。

「これ、見てもらえますか?」青年は左腕に抱えたままであったスケッチブックを透子に差し出した。
A4サイズのリング式のスケッチブックの表紙は鉛で鈍く光っており、下地の色が余計に年季の入った茶色に見える。スケッチブックを開く。鳥、花、建物、子供、・・・死体・・・?


死体らしき人間を描いたスケッチが時折挟まっている。しかもその死体らしきスケッチだけ微妙に色鉛筆で色が注してある。ページの中盤あたりで透子は思わずめくる手を止めた。


・・・あの女。金髪のボブカットの、マンションの裏手の石畳の上で死んでいた女・・・。

「・・・・・。」沈黙。
青年はじっと透子の手元とスケッチに視線を落としている。


「・・・こういうのも、描くんですか・・・」透子が顔を上げずに問う。
悪趣味だと思った。どうでもいいが。

青年は深く息を吐き出すみたいに掠れた声で答えた。
「いえ、描かされている・・・のだと思います。」
透子が顔を上げて青年を見ると、青年は顎下に両手を組んで虚ろな視線をテーブルの上のコーヒーカップに落としていた。
「描かされている・・・?」

青年は視線を落としたまま、鉛の玉を落とす様に重く語り始めた。
青年は幼い頃から絵を描くのが好きだった。8歳の時、下校すると母親が玄関で血まみれになって倒れていた。父親は一命を取り留めたが負傷していた。室内は荒されていて、強盗殺人事件として当時のワイドショーや新聞ではちょっと有名になったらしい。犯人像は目撃情報や室内に残った汗や足跡等から粗方絞られたが、逮捕には至らずに捜査は難航した。
その頃から、事件の後遺症なのか、青年はスケッチブックにその惨状と母親の死体を描く様になったのだという。周囲の大人も幼い青年にはあまりにも残酷すぎる凄惨な事件の強い後遺症からだろうと、そんな青年の描き出す絵を見て哀れんでいたが、ある日、青年はその際に見てはいないはずの凄まじいイメージに脳内を激しく侵された。
そのイメージは、怒号の様に絶え間なく青年の脳内に降り注ぎ、着々と鮮明になっていったという。
そして青年はある日スケッチブックに全く見ず知らずの男の首吊り死体の絵を描きだしたのだった。
そのスケッチはまるで捜査で使用されるモンタージュの様に精巧で、とても8、9歳の児童が描くものとは思えないスケッチだったそうだ。自分でも何故そんなに巧みなスケッチを描けたのかはわからないらしい。
「自分の腕が気持ち悪い、何か別の生物みたいな感じで。頭の中に煩く鳴る怒号に脅迫されているみたいに、描かなくちゃ、描かなくちゃ、何か恐ろしいモノが、とんでもない怖いモノが来る。救いのない絶望的な何かがくるって、そんな脅迫に無理やり腕が動いている感じでした。僕はあんな絵は描けなかったし、描きたいとも思わなかったし、大体思いつきもしなかったのに。だからあの時の絵は僕じゃない何かが描いていたんじゃないかって。」
その後、程なくして犯人が捕まった。容疑者死亡のまま。
容疑者は同じ町内に住む無職の若い男だったらしい。そして、発見された時には自宅アパートで首吊り自殺をしていて、傍らには遺書が残されていた。
その遺書は、青年の母親を殺したという告白、職が見つからずに人間関係でも悩みを抱え、やけっぱちになったという内容であった。問題はその男の死に方であった。青年が怒号の様な恐怖感と脅迫感に苛まれ、「何か別の生物が描いた」というスケッチの情景そのものだったのだという。警察関係者を始め、青年の親族達はその事実に戦慄き青年からスケッチブックを取り上げた。しかし青年は描く事を辞めなかった。いや、正しくは辞められなかった。何故ならその後幾度となく青年は、あの首吊りの男の絵を描いた時の様な怒号の様な恐怖と脅迫感に襲われたからだった。真っ暗な闇の中に激しく蠢く得体の知れないそれは目を閉じても開いていても青年の脳内に差し迫って来て、気が狂いそうになる様な絶望感を与え続けたのだという。
幼かった青年は耐える事が出来ずに、周囲の大人達に隠れてはおぞましいスケッチを描き続けた。それらは時折、気味が悪いくらいに精巧な死体の絵になった。そしてそんなおぞましい絵を描いた数日後には大抵その死体の絵によく似た人間の写真をTVの報道番組で目にした。それらは全て殺人事件や誘拐事件や失踪事件の報道だった。年を重ねるごとに青年は自分が描かされる様にして描いてしまう怒号の様な恐ろしいイメージから生み出されるスケッチが、近々に確実に現実となる死を描いているという事実を飲み込み始める。親を亡くして、親戚の家に世話になるしかなかった幼い日の青年は「こんな気味の悪い絵を描いていたら嫌われてしまう。居場所が無くなってしまう。愛されなくなってしまう」という新たな恐怖を強く感じ、ずっとその事実を隠したまま、生きる為に必死になって親戚である育ての親や、友人達に賢明に愛想を振りまいてきたのだった。しかしそれとは相反する様にして青年の内面には次第に果ても救いもない暗闇の様な絶望感が充満していった。
そして現在、結局未だに根源は知れぬままで、青年はその得体の知れない真っ黒い恐怖感と脅迫感の蠢く闇のイメージに駆りたたされながら今でもふいにそんなおぞもしいスケッチを描いてしまっているのだと言う。
青年は一つ一つ、重たい鉛玉を噛み潰す様にして語り終えると、ほぼ冷めてしまっているコーヒーを一口飲んで目線を上げた。

「・・・無理がありますよね。」何か、完璧に諦めきったみたいな淀んだ黒目が前髪の奥の方に見えた。

「いえ」透子が、スケッチブックに描かれたボブカットの金髪女の絵を見ながら答える。

「信じられますか?僕も未だに理由がわからないしこの手も信じられない。」

「・・・同じじゃないですか・・・?」

透子は顔を上げずに視線だけを青年に向けて言った。青年は意外な透子の応答に少し驚いた様に、元々強い目もとの中にある見えにくい瞳孔を更に開いて透子を見た。

「信じるかどうかというか・・・よくわからないけど、どっちにしても同じで、なんていうか・・・。悲しいと思います。そういうの」

青年は急に全身の力が抜けたみたいにだらりとテーブルの上に両肘と腕をついて上半身を落とし、頭をうな垂れた。そして俯いたまま、
「悲しい、ですね。」と、今までの中で一番活舌よく、暖かい感情がこもっている様な厚みのある声で、搾り出す様に言った。

透子自身も何故、そんな言葉が自分の中から出てきたのかわからなかった。自分の吐き出した台詞が誰かの言葉みたいだった。「あれ」と思った。「悲しいって、何が?でも悲しい。痛い。でも何で・・・?」そう思った。そして透子自身もその後しばらくは次の言葉が出ないままだった。その台詞の原動力はまるで、透子自身の意思とは別の何かに言わせられたかの様でもあった。

青年の腕の上に水滴が落ちた。すぐにそれが涙だと判った。青年は泣いていた。必死に肩の震えを制御しながらそれでも制御しきれずに全身から関をきって、決壊しながら静かに泣いていた。
青年は残りの膿を出すかの様に告白した。いくつもの死を予期してしまってきた事、それなのに母親のその時には全く気がつけなかった後悔。人を知る事でその知り合った人もいつかは死のスケッチに描きだしてしまうのではないかという恐怖に苛まれ、だんだんと他人との接触を極力避けてきた事。その最中で重く圧し掛かってきた虚無感や孤独、自己嫌悪。

「虫の知らせって、あるじゃないですか。別にこんな妙な感が働く人じゃなくても、親しい人や愛しい人の危機をなんとなく察知するみたいな。あの日、僕は何も感じなかった。今だに僕に降ってくる得体の知れないイメージはあの日の死だけを僕に教えなかった。・・・いえ、僕が感じ取れなかっただけかもしれませんが。とにかく母は死んだ。もし僕がその前にこの妙な死の予期能力に気がついていたら・・・。」青年はそこで口をつぐんだ。おそらく「防げていたのに」という次に「もし、たら~れば~」な言葉が続くんであったのだろう。しかし、それを後になって発言する事の虚しさを青年は痛い程に知っているのであろう。透子はそう感じた。

「それで・・・、あの夜、血相変えて訪ねてきたんですか?」

青年は少し落ち着きを取り戻し姿勢を正して一息ついた。「はい、僕が予期してしまう死なんて世界のほんの一部にも満たないですけど・・・検討がつくのなら間に合うかもしれないと思って・・・。」

「でも、あなたの予期した絵は確実なんでしょう?」

「・・・はい。僕の検討のつく範囲内へは探しにいくのですが・・・大抵見つけられないままで。とにかく手がかりがこれだけなので・・・。」青年はスケッチブックに目線をやる。

「大抵、後日、TVのニュースとか噂でその予期が的中した事を知るんです。」

「そう・・・。」透子はふと、昔死んでいった母や、あの男の人の事を思い出した。青年はその死も予測してスケッチしていたのだろうか。


「あの・・・9年前に描いた絵の事とか、覚えてませんか?」
もう、済んだ事。思い出したくもない事。しかし透子は聞かずにいられなかった。
「9年前?」青年が眉をひそめる。
「9年前に、車の中で死んでいる女の人を描きませんでしたか?40歳くらいの、髪の長い・・・」
そこまで言って透子は絶句してしまった。直接見た訳ではなかったし粗方の事を人づてに聞いただけなのに驚く程鮮明に母親の死の情景が浮かび上がってきてしまった事に驚いて吐き気がした。。
「車の中・・・。その人、左腕にためらい傷がある人ですか?・・・妙に安らかな顔をした・・・。死んでいるのに笑っているみたいで・・・。なんだか印象深かった。」
呼吸が一瞬停止した。そうだ、母の左腕には確か幾筋かのためらい傷があった。死に顔は妙に幸福そうだったと聞いている。
記憶がどんどん鮮明に湧き出していく。見た事もない母の最期。だからこそ忘れられずにいつまでも強力にイメージしてしまう最期。悲しみなのか、恐怖なのか、吐き気なのか、憤りなのかわからない。何だかわからないが忘れて麻痺しかけていた強い感情が水のように次々に溢れこぼれてくる。

「そうです、・・・多分。その人は私の母親かも知れません」
今までにいくつもの死を描いてきた青年が、9年前に描いたというそのスケッチは母だと思った。なんとなく、でも強くそう思った。
青年はその事実を聞かされると、薄い肩を更に落として「すみません」と小さく言った。
「いえ、あなたには関係の無い事ですから、いいんです。終わった事だし、誰しもいつかはそうなるから」
透子は吹き零れかけていた強い感情を封じる様に、表情を整えてから言った。
そうだ。済んだ事だ。守る事も防ぐ事も出来なかった、どうしようもなかった事。もちろん覆す事もできない。「死」という絶対的な事実。果てのない絶望。闇。後にも先にも何も産まれない事。残った者は自分の「死」という絶対の運命に向って日増しに増える傷を癒やす事も出来ないまま、真っ暗闇の重荷を背負って生きていくしかないんだ。他に術もなく、贖い救われる事もなく。

「強いんですね」青年はそう言って苦笑いした。
生きている身である自分に課せられた「死」という絶対的な絶望の他に、不特定多数の生きている人、しかも身近な人々に降りかかるそれまでも予期してしまう運命を背負った青年の笑みはやはりどう見ても苦笑している様な、どこか悲しい感じで、そういった空虚さが根源になっている笑みにしか見えない。
青年と透子はしばらく沈黙していたが、透子が「平気ですか?」と言って煙草を取り出すと「僕も一本もらえますか?」と青年が言ったのをきっかけに沈黙が解け、しばらく他愛のない雑談をした。


「そういえば、名前聞いてませんでしたよね。僕、雛野映二といいます。26歳です。」

かなり遅くなった自己紹介を受けて透子も「神崎透子です。・・・24歳です。」と自分の名と年齢を答えた。人に対してこんなに行行しく自己紹介をするのがちょっと気恥ずかしかった。

「神崎さん、・・・」青年がそう言いかけたところで「透子でいいです。さんとかいらないです」と制した。神崎さんとかなんだか面倒だ。

「・・・透子さん、」映二は知り合ったばかりの女に対してちょっと言いにくそうに答えると、半分以上吸っていたタバコを灰皿の中で潰しながら、透子が少し忘れかけていたあのボブカットヘアの女が死んだ夜に見せた温度感のない無表情な目でテーブルの真ん中に置いていたスケッチブックを透子に押し出しながら言った。


「これの一番新しいやつを見て下さい。」

語尾を強めながら透子を強く見つめたままの青年に促されて、透子はスケッチブックの一番新しい絵の描いてあるページを開く。
・・・幼女の死体。

「いつもははっきりとはわからないんですが・・・、この絵は手がかりが比較的多い方で。・・・あの、一緒に探してもらえないですか?」
まだ紙がピンと張った真新しいページの絵には気味が悪いくらいに、まるで写真の様なリアルさで、幼い女の子の死体が描かれていた。女の子は浴衣を着ていて、手のすぐ傍には風車が転がっていた。そして何やら暗い影が落ちる(スケッチには鉛筆で全体的に濃い影が覆っていた)草むらみたいな場所に横わっていて、・・・首もとにはうっすらと何かの痕みたいな線が薄くではあるがはっきりと描かれていた。

「これ・・・。」描かれた幼女の死の絵の中に、薄らと、しかし妙に色濃く映える首もとの痕にはっと気がついた透子は思わず青年に切り返す。

「多分、次は自殺でも事故でもないと思います。」青年が表情を固めたまま言った。

「殺人・・・?」透子は絵に視線を落とした。いつのまにか吸いかけの煙草が灰皿の中で絶えていた。

「今週の土曜日、この辺一帯で夏祭りが開かれます。浴衣姿で風車といったらおそらくその日、それが現実になるのかもしれないと・・・」

確かに今週末の土曜日、町内では商店街から神社に続く通りの全体で年に一度の縁日が開かれる。神輿も出て花火も上がり、商店や有志の団体がそれぞれにたくさんの出店を出す結構大きなイベントだ。
「いつもなら日時の特定はできないんですが、その絵から推測すると今度の祭りの日に起こる可能性が高い。それで現場を探しあてられれば、もしかしたら・・・間に合うかもしれない。透子・・・さん。探し出すのを手伝ってもらえないでしょうか?」
淡々として控えめな言葉だった。映二は無表情のままで言った。
しかし目もとに強い重力を携えていた。


週末になった。
本当ならバイトが入っていたのだが、急にお通夜に行く事になったと出鱈目な嘘をついた。
自宅と管理室の行き来だけの日常を送っていた透子は始めて私事でバイトを休んだ。その為か、雇用先もなんとかそれを承諾してくれた。
土曜日、昼過ぎ。いつもより早い目覚めだった。前日もバイトで寝たのは9時頃だったが、明日(正しくは今日だが)確実に人が一人死ぬかもしれないと思うと、その非現実的な、しかしかなりヘヴィな予期になかなか安眠できなかった。透子は明らかに調子を崩していた。体調とかではない。映二と出会った夜から、今まで平坦で空虚ではあるがそれでもそこそこに回転していた透子の日々が、あの夜を境に少しずつまたバランスを崩してきた。なんとかかんとか積み上げたレンガが少しずつ崩れていくみたいで、正直少し怖かった。またそのレンガを積みなおす力が果たして残っているんだろうか。しかし、何故か映二の申し出を断れずに不謹慎すぎる嘘までついて今日に至る。嘘までついて、なんとか安定させているサイクルを崩してまで、また交わろうと関わろうとしている事が信じられなかった。気持ち悪かった。痛くて悲しくてしんどいだけなのになんでまた・・・。

ベッドの中で悶々としているうちに祭囃子が聞こえて来た。商店街の方から神輿が出てきたみたいだ。晴れない脳内を擡げたままでシャワーを浴び、ブラックのコーヒーに氷をどかどかと入れて飲んだ。あまりの気持ち悪さに目が少し覚めた。黒のワンピースに薄い山吹色のショールを羽織ると、いつもより少し時間をかけて化粧をした。胃のあたりは相変わらず吐き気が吹きだまっていたし、これから死ぬ人の捜索にあたるというなんとも素っ頓狂な予定だったのだが、男と会うという事で無意識に緊張していたのかもしれない。
商店街はまだ夕方前だというのにたくさんの出店が並び、人で賑わっていた。もちろん浴衣を着た人は老若男女たくさん居てこの中からあの絵の少女を探せるのかかなり不安になった。色とりどりの出店と浴衣が犇めき合い、只でさえ蒸し暑い夏の午後に人の熱気が充満していた。商店街のそんな平和な情景を見ながら、待ち合わせ場所の神社へ向う。本当にあの絵が今日現実になるのだろうか、ふと冷静に考える。何かに酔った、というか取り憑かれたみたいに過ぎたあの喫茶店での日から今日まで。妙な夢を見ているんじゃないか、

もしくは手の込んだ・・・ナンパ・・・?・・・って・・・。
馬鹿みたい。


当たり前みたいに平和な雰囲気に包まれている商店街の光景を見ているうちに、透子は暢気にそんな事を考えた。映二は神社にいるだろうか、もし居なかったら、15分待とう。それで来なかったら、帰って寝よう。いや、来ない方がいいのかもしれない。このまま有耶無耶になって消えて、元々居なかった事にして、そうすればあの不吉なスケッチ達も同じ様に無かった事にできるし、そうこしてまた元通りに日々が過ぎていく方がいいのかもしれない。
淡い嘆願をぶち切る様に携帯の呼び出し音が鳴った。携帯電話は持っていてもほぼ電源を切っていたし、持ち歩く習慣すらなかった透子はマナーモードにする習慣もなかったのだ。
雛野映二からだ。電話に出る。
「もしもし、雛野です。今どこですか?」

「あ、」一瞬で現実に引き戻された。現実ってどっち?雛野映二と出会ってからの方が非現実だと思った。

「えっと、今、通りの真ん中くらいだと思います。多分5分くらいで着きます。」透子が周囲を見渡しながら答えると、両側に立ち並ぶ出店の少し先の方に風車とお面を売る出店が見えた。
「風車・・・。」映二の描いたあのスケッチの少女の絵が鮮明に蘇ってきた。確か少女の手もとには風車が転がっていたはずだ。
透子が呟くとすかさず映二が続いた。
「風車のところですか?今僕も近くにいます。通りに風車を売っているところが4つあるんですけど、透子さんの近く何か他に目印みたいなものありますか?」

「お面があります、風車とお面・・・」透子がそう言いながら周囲を見渡し、他に目印になるものを探してきょろきょろとしていると賑わう人混みの中から映二の姿を捉えた。映二も透子に気づいたらしく駆け寄る。

「すみません、早めに来て風車のある店をチェックしていました」お盆と言えどまだまだ夏だというのに映二は7分丈のロンTとボロボロのジーンズにぺたんこで藍色のコンバーススニーカーというちょっと暑苦しくて汚い格好で現れた。人に会う格好とは到底思えない。しかも相変わらず目もとは延びきった長めの髪で不恰好に隠れたままだ。
風車、祭り、雛野映二・・・。そうだ、探しに来たんだ。予期された死を見つけにきたんだ。ふわふわと慣れない平和な景色の中を漂い歩いていたが、途端に固い地面に叩きつけられた。

「何かわかりましたか?」

「いえ、とりあえず風車を扱っている出店はここを含めて4件あって、神社の階段近くにひとつ、あとは商店街の入り口からここまでの中に2つありました。」

「張り込んでおくには少し範囲が広すぎないですか・・・?」
商店街は神社のある末端まで大体200mくらいはある。そこの全体がお祭りムードで賑わっているし、人の出入りも絶え間ない。ましてや夜には花火が上がるという事もあり、これから人は更に増えてくる。一体映二はどうやって少女の死を覆そうとしているのだろうか。二人で虱潰しになんてとても探し出せそうにない広すぎる範囲と少なすぎるたった一枚のスケッチという貧弱な手がかり。

「探すのは少女じゃありません。」映二は透子が訝しげに思っているのを察知したのかきっぱりと言い放った。

「??。じゃあ何を探し出せばいいんですか?」すかさず透子が聞く。

「現場です。現場は一つですから・・・。絵の中で少女が倒れている場所を探し出すのがベターです。」

なるほど。確かに、風車の出店は広範囲にまんべんなく4軒あり、いや扱っている出店はもっとあるだろう。
ましてや浴衣を着た子供なんて無数に居る。でも現場を特定できれば、そこは一つなはずだ。たった一枚の絵から推測しなければならないから、それも難しい事ではあるが、無闇に人ごみの中で少女と風車を探し回るよりはベターだろう。
映二は小脇に抱えているあのスケッチブックを開いた。相変わらず何度見ても不吉で悪趣味な絵だ。
透子も絵の上に頭をつっこむ。

「この子の下、描いた僕が言うのもなんか変ですけど。・・・多分草むら、たくさん鬱蒼と生えている草むらです。だから多分現場はここら辺の出店辺りじゃないかもしれません」

確かに、駅前や商店街には等間隔に植えられている樹木や背の低いのある小さな緑地は点々としているが、まとまって芝生みたいな場所はない。ましてや絵の中の草むららしき場所はあまり人の手が入っていない感じで草がばらばらと生えている印象がある。
「もしかしたら縁日でこの子の着ている浴衣の柄とか、この子の顔が見つかるかと思ったんですけど、こんなに人が多いとやっぱり無理ですね。」
縁日なんだから当たり前だろう。透子は思った。とりあえず絵の中で死んでいる幼女に似た子に注意して歩きながら商店街を出ようという事になり、透子と映二は賑やかに湧く縁日の商店街を抜けていく。

映二は方々に目を凝らしているせいか、人ごみに慣れていないせいかしょっちゅう人にぶつかった。
「前髪切ったら視界よくなりますよ」ネジの外れたロボットみたいにぎこちなく人ごみの縁日を歩く映二を見かねていたが、透子も男と連れ立って歩く事自体が久しぶりだったし何より普段なら絶対に寄り付かない人の多い場所にいて、尚且つよくわからない死人予定の少女を探しているという現状に透子自身も余計に神経をつかっていて無愛想な言葉を吐いた。

「髪かあ、切ったら少しは世界が明るく見えるんですかね」映二は多少透子に慣れてきていたのか、顔に形の整えきれていない笑みを懸命に浮かべて答えた。

夕暮れが迫る商店街はくどいくらいのオレンジ色に溶けていく。縁日は一層活気を増し、方々で絶え間なく湧く人の声が重なり、これから始まる夏祭りの起爆剤みたいに弾け重なっている。手を繋いだカップルや親子連れ、神輿を担いでいたハッピ姿の町内会の男達、軽装で今にも飛んでいきそうなくらいに元気な学生らしき集団・・・。完璧に安全を保障されているかのような全ての情景。透子がここ何週間かの間に遭遇した非現実と予期された死のスケッチ、そんな不協和音の象徴みたいな雛野映二という男。近々に目の当たりにした生と死の象徴みたいな双方のあまりのギャップに眩暈すら覚える。思うと自分がまっすぐ歩いているのかすら自信がなくなってくる。それでもやはりここ最近で確かに目の前で現実に起きた事、その記憶と今だけを抜粋してとにかく死を予期されているあの少女を見つけなければという動機に繋げる。色とりどりの平和な情景にうっかり酔わされそうになってくるが。
商店街の入り口付近は中心部の賑わいが少しは薄れていた。出店もいくつかは立ち並んでいたが通る人は皆、最奥部の神社に続く道へと吸い込まれていき足を止める者は少なかった。
映二は身体があまり強くないのだろうか、縁日に湧く商店街の中心から人ごみを縫って歩いてきた疲れで少々ぐったりとしていた。
スケッチを見ながら案を出し合い現場を探そうという事になっていたのだが、多分一息入れた方がいいだろうと判断した透子はスケッチを見ながら悶々と何かを考えながら歩く映二を呼び止めた。

「一回座りませんか?」映二はふいを突かれたみたいに呆けた顔で透子を振り返ったがすぐに承諾し、二人は商店街の入り口にあるちょっとした掘っ立てみたいなテーブルと椅子とが並ぶ店で休憩を取ることにした。
「何か買ってきましょうか」ブロックに板を置いただけの椅子に座った透子に映二が言った。
カキ氷、たこやき、ラムネ、ソフトドリンク、ビール・・・。出店の看板下には陽気な手書きの紙札が夕方の風にひらひらと揺れていた。

「ビールで・・・」これから死ぬかもしれない人間を探す前に酒を飲むなんてかなり不謹慎な気もしたが、久々に強い西日と人ごみの中を歩いた透子の声帯は正直に答えてしまった。つい、口をついて出てしまったので映二が眉を顰めるのではと言ってしまってからはっとした。
しかし席に戻ってきた映二は2つの缶ビールを手にしてまたあの痛いくらいに無理くさい笑みを作って立っていた。

「疲れましたね。すみません。僕もこれで」

映二はそう言いながら両手に持っていた缶ビールのフタを同時に指で開けると一つを透子に差し出した。

映二は最初の一口二口だけを舐めただけでそれ以降は缶に手をつけなかった。変わりにセブンスターの本数が灰皿内に増えていった。

「この辺の事、あまり僕詳しくないんです。実は先月越してきたばかりで」

そう言われても・・・。と思った、映二の予想外な行き当たりばったりの死人探しに少々呆れた。あの夜、金髪のボブカットの女の死を予期してマンションまでたどり着いたのは多分奇跡に近いのだろう。

「草むらのある、公園や緑地はたくさんありますけど・・・この近隣だってなんで判るんですか?」

死なんて、2秒に一人は世界のどこかで誰かが死んでいるとかいう統計もあるじゃないか。映二が確実に死を予期してスケッチを描き出してしまうのであれば、2秒に一度、というか常に24時間鉛筆を握っていなければならないはずだ。透子はふと冷静にそう思って映二に問う。
「それもよくわからないんです。不思議なんですが、僕がこの死人予測の絵を描き出してしまう様になってから気づいたんですけど、全ての事件や自殺が僕の身近で起こる事、僕が必ず知ってしまう事ばかりなんです。例えば近所のおばあちゃんが孤独死するとか、近くの道路や路線なんかで自殺や事故が起こるとか、・・・。いつも必ず僕の目や耳に入ってくる死ばかりなんです。だから身内や知人が死ぬ事は全て察知するハメになりました。」

「そんな・・・」透子は一瞬そんな映二の死亡予測絵画の能力を自分の身であったらと考えてぞっとした。
自分がある程度行動する範囲内や、いや、それよりも自分が顔を知っている者が死にゆく事を、しかも事前に知ってしまうなんて。
突然降りかかりあっという間に過ぎ去っていくその死のダメージに加えて、映二はそれ以前にその「死」という絶対的な現実を垣間見てしまうのか。一体少年時代の映二はその目前の絵の前で、そして青年の今になっても訳のわからない不思議で不吉な死亡予期能力と、そうして目前に書き出されるおぞましい絵と死というかたちとを、どんな気持ちで受け止めてきたのだろうか。

「普通に絵を描く事は元々好きだったから描き続けていましたが、あの事以来、妙な圧力に押されて死人を書き出してしまう癖がついてから、それらは全部的中しました。どういう訳か絵を描いた後に必ず僕はその絵の中で起きる死を知る事になるんです。人づてに聞いたり直接目の当たりにしたり、TVの報道番組で知ったり、だから多分僕が描き出してしまう不吉な死の絵は、僕が必ずこれから知る事、身近で起きる事なんじゃないかって。」

映二は自分でもよくわからない能力の比重に潰されているみたいに肩を深く落としながら述べた。
死亡予期の絵を描き出してしまう度にそれを阻止するべく走り回る事はできるが、その根源である死を予期してしまう能力を元から経つ事はできないのだろうか。
「止められないんですか?例えば・・・絵を描く事を辞めるとか」
「僕もそう思いました。ずっと昔から僕にとって絵を描く事はもう癖みたいな感じで、いつもスケッチブックと鉛筆を持っていましたがこんな事になってから一時もう絵を描く事自体を辞めようと思ってスケッチブックや鉛筆やら、全部の道具を燃えるゴミの日に出した事がありました。」

「駄目だったんですか・・・」

「とりあえず絵を描く事は我慢できました。なんでもない時に落書きみたいに何かを描く衝動も我慢していました。だから絵として描き出してしまう事は避けられましたが、・・・いつも死を予期してしまう絵を描き出してしまう時に頭の中に充満していく、まるで脅迫するみたいな煩いイメージからは逃げられなかった。絵に描き出さない代わりに僕は夢を見ました。24時間ずっと。寝ていても起きていても、頭の中にずっとそのイメージが迫ってきて死んでいる人を鮮明に見せ付けてくるんです。上手く言えないんですが、それはだんだんリアルになって頭の中で「描け!描け!!」と、叫ぶみたいに煩く鳴ってくるんです。無意識に描きたい、描かなければという脅迫観念もだんだんリアルになってくる。手が震えて、ペンを持ったらその恐ろしいイメージを絵に描き出してしまいそうで怖かった。だからとにかくそのイメージとわけのわからない不吉な衝動を抑えるのに必死になって、考えちゃ駄目だって別の事を無理に考えようとしたのですが無駄でした。そうこうして悶々としているうちにそのイメージの中で見た死が起こりました。僕の頭の中に張り付いて叫び散らす情景と同じ死亡事件や事故や自殺が確実に、まるで僕を導くみたいに僕が知る範囲内で現実になっていった。」

縁日の賑わいと対比した重たい空気が流れた。あまりにも重たいものを抱えている映二に透子はかける言葉がなかった。もし自分にそんな妙な予知能力がついてしまったら、知りたくもない、あまりにもたくさんの「死」を知っていくくらいなら、自分の「生」自体を止めてしまおうと思うだろう。
殆ど中身の減らないままの缶ビールだけがせっせと汗をかいていた。辺りには夕闇が迫ってきていて、出店の立ち並ぶ通りにはちょうちんの明かりが滲んできている。

絵を見つめていた透子はふと、ある事に気がついた。
絵の全体に目の細かい薄い網をかけたみたいにまんべんなく影が覆っている。鉛筆を斜めにして筆圧をこめずに色を塗ってあるみたいに。

「なんか暗いですね、この絵。」

「そうですね」映二も改めて確認したみたいだ。

「人目につくところじゃない・・・どっか建物とか何かの陰になっている場所なのかも」映二が眉間の薄い皮膚に浅い皺を寄せる。

「大きな建物の陰で、草むら・・・」透子もあまり街中の色んな所を出歩かないので、近辺の土地情報は乏しいが思いつく限りの場所を考える。ひとつ場所が挙がる。

「・・・確か、草むらになっている空き地があります。あまり人が通らない場所で、隣でマンションの建築工事をやっているので空き地全体が昼間でも陰になっています。空き地はプレハブが立ったり資材置き場になっていて・・・。多分死角になる薄暗い場所がたくさんある空き地なら、心当たりがあります。」

透子がつい最近まで通っていた歯医者に行く途中にある場所だ。巨大なファミリー向けのマンションの建築中の場所で、ちょうどその建築現場の北向きにその空き地がある為に昼間でも妙に薄暗く、おまけに草むらも荒れ放題、加えて大きな資材やプレハブ等のせいで子供の死体一つ遺棄するのには充分な死角がたくさんある場所である。

「いってみましょう。」

映二はそう言いながら立ち上がった。多分、時間はあまり無いのだろう。全体的に薄暗い絵の印象から言っても、多分それは日没前後か夜に起きる。いや、昼間でも薄暗い場所であるならばもう既に手遅れである可能性もある。どっちみち映二は彼が予測して描きだしてしまった絵の中の死を知る運命にある。
手遅れになってから知るか、間一髪でもなんとかなるうちに見つけ出せるか、アウトかセーフかの二つの可能性がまだあるかもしれない。日が殆ど沈んできていて薄暗くなった今この場で、とりあえず映二の耳にも目にもこの少女の死の事実は入ってきていないのだから。二つの是か否かは同じくらいの可能性を秘めているのかもしれない。

賑わう駅前と商店街から少し歩いて、住宅街の方へ続く道を足早に進む。建設途中の巨大なマンションは歩きながらも充分に確認できた。日の沈んだばかりの藍色の空の下、屋根の低い宅地の中に建つその巨大な影は不吉に目立つ。程なくして空き地に着く。足早に歩いてきたせいで二人ともじっとりと汗を掻いていた。始まったばかりの夏の夜は状況が状況なだけかもしれないがなんとなく重たく感じた。
空き地は人気もなく、電気の消えたプレハブがぽつりと建っていてその周りには雑然とたくさんの資材が散らかっていて、トラックが3台止まっている。駅前の方からうっすらと祭りの賑わいが聞こえてくるが、宅地の中にある空き地は音もなく時間が停止した様に静まり返っていた。映二はズボンのポケットから小さなライトを取り出すとうっそうと一面に茂る草むらを照らし出した。
「一回りしてきます」映二はそう言いながら暗く静まり返っている空き地内へ歩き出した。透子も携帯についているカメラのライト機能を駆使して草むらや資材の陰などを捜索する。
映二と透子は空き地の左右で手分けをして敷地内を丹念に調べた。しかし、それらしき少女はおろか、人影や野良猫一匹見つからなかった。草むらは夏のせいで勢い良く生え育っていて、歩く度にライトの中で虫が飛んだ。資材の陰、トラックの間、プレハブの裏、どこにも異常はない。

「何か、ありましたか?」空き地の入り口に帰ってきた映二が戻ってきた透子に言った。

「いえ、特に・・・」透子は蚊に刺されまくった腕を掻きながら答えた。

久々に歩き回ったせいか、大量に発生している蚊に刺されまくったせいか、少々疲れてきた。一体なんでこんなに人と一緒に動き回っているのだろう。最近は特にだが、同級生の知人やある程度付き合いのある知人達に誘われたって出て行かない出不精だったはずだ。映二とは会ってからまだ一月も経っていない。なのにどうしてそんな名前くらいしか知らない青年の言う事を真に受けてこうしてバイトまで休んで一日を割き、歩き回って疲れて蚊に刺されているのだろう。ちょっと馬鹿馬鹿しくさえなってくる。映二が発する妙なオーラというか、救いのなさそうな空気とか、闇みたいな存在感の発する重力に理由も無いままで惹かれていたのだが、無論惹かれていたといっても好きとか恋愛とかそんなんとは違うし、透子もそんな色恋沙汰には辟易していて興味も示さない。なのに何故、なんで・・・なんでこんな事までして・・・。

そんな思いが一瞬頭を掠める。そうしてしばらく透子が黙っていると、映二はスケッチブックを開き、再びあの少女の死を描いた絵にライトを照らして手がかりを探り始めた。すっかり闇に包まれた人気のない空き地の中で絵が煌々と白く反射して浮かぶ。相変わらず不吉な絵だ。しかし透子はある事に気がついた。


「ちょっと貸して!」映二からスケッチブックを奪い取ると透子は携帯のライトで絵を確認した。

・・・これって・・・?


「どうしたんですか?」映二が急いて聞く。


・・・もしかしたら・・・これって・・・。


「・・・ここ、ここの、短い線みたいなのって、故意に描いたものですか?」

透子は絵の背景にうっすらと描かれている、宙に浮いている短い横線を指差した。
「あと、ここ。この草むらの中の四角い感じで描いてある、これも」続いてうっそうと描かれた草むらの根元にこれまたうっすらと見える人工的なブロック石の角みたいな部分も指差す。
二つとも絵一面に網かけられている薄暗い鉛筆の色に埋まっていて判りづらいく気がつかなかったが暗闇の中、明るいライトに照らした絵の中を丹念に調べると確かに描かれていた情景の一部だった。

「故意・・・とういうか、鉛筆の跡とかじゃないはずです。これ、ブロックか何かかな・・・。あと、この線も・・・」言いながら映二がまじまじと絵を覗き込む。

「この角みたいなの、ブロック的な感じじゃないですか、草に埋まってるけど、この石みたいなやつ、なんか人工的な感じがする。あと、これがもしブロックの石でこの草むらがその上に生えているとしたら、河原とか河川の近くの土手かも。土手によく敷き詰められてるやつ。だとしたら・・・」

透子がたどたどしくも思いつく範囲いっぱいに想像力をフル回転させながら喋っていく。

「橋・・・!?」映二は咄嗟に顔と声を上げた。

そう、橋。橋の下・・・かもしれない。宙に浮かぶ横線は橋の柱に描かれた水位線かもしれない。場所としては充分に可能性がある。

空き地から一番近い、というかこの街で河川や土手と言ったら一つしかない。しかも架けられた橋は大きなものがひとつ。その他の橋はかなり遠い。それは空き地から商店街を越えた反対側。商店街からまったく反対側だ。

「行きましょう!」映二が間髪入れずに走り出した。透子もそれに続く。

映二は足が速かった。細い身体を軽々と加速させていく。それでなくとも空き地を探し周ったり、普段より数倍も歩いたり人ごみに出かけたりしていて慢性的な運動不足気味の透子の体力は限界に近かったが、加速していく映二の背に駆りたたされるみたいにして必死で走る。
陽が落ちてからまだそんなに時間は経っていない。もし橋の下がビンゴなら、間に合うかもしれない。・・・でも、もしも、これから向う最寄の大橋ではなかったら、いや、場所自体が外れていたら、映二の予想が万一外れていたら、いや、そんな事すら全て出鱈目だったとしたら・・・。
息が切れる。身体も痛い。ミュールなんて履いてくるんじゃなかった。視界がちかちかしてくる。馬鹿馬鹿しい、なんでこんなに汗まみれになって暑苦しい夜を駆けているんだろう私は。一瞬冷静になって否定的な思考が過ぎった透子だったが、微妙に卑屈に下がっていく士気とは逆に心拍数が上がる。何故か足が走るのを辞めない。なんでこんな事してんの?私。ああ!もう!

脳内がノイズまみれになる。不快だ。訳がわからない。しかし行動はクリアだ。駆けていくだけ。そのひとつきりの場所へ向って。

静かな住宅街を抜け、賑わいも最高潮になっている商店街の脇を抜ける。此処にも様々な出店が並んでいて、人の群れができている。もうすぐ花火が上がるからだろう。平和そうな顔をした大衆に反して血相を変え、青ざめながら汗だくの全速力で駆け抜けていく二人はかなり異常だ。
赤いちょうちん、色とりどりの浴衣の色彩、すっとぼけた音楽、笑い声、甘ったるい匂い、歓声、笑う歯の白、反射する髪飾り、狂い咲くスポットライト、全てが眼の端にひっかかってパチパチと破裂していく。
うざい、疲れた、ビール飲みたい、シャワー浴びたい。映二も透子も何度も人にぶつかった。映二は一度も振り返らない。

・・・。なんでこんな事してんの・・・?私。

名前と歳くらいしか知らない人と、チンケなフィクションみたいな話の為に・・・。
っていうか関わってもしんどいはずなのに、知っているのに、・・・。なのに、こんなしんどい思いまでして、更にしんどい事しようとしてる・・・。この妙ちくりんな赤の他人と・・・。って、なんで!?

卑屈な苛立ちが次々と暴発してくる。もう半分ヤケクソになりながら走り続ける。むかつくけど止まらない足と妙ちくりんな衝動。自分の言う事をまるで聞かない自分の身体に一番イライラした。

「・・・ほんっと・・・馬っ鹿じゃない・・・!」思わず呟いたが荒い息と加速する脈の音にかき消されて透子自身にもよく聞こえない。無論、映二は振り向かずにとり憑かれた様に走り、どんどん距離を離していく。


やっとの事で人垣を切り抜け、閑散としてきた。河川と大橋は近い。花火を見る為に少しずつ人がそちらに向って流れ始めているが、大橋の袂と付近は花火の打ち上げ現場に近い為、警備で立ち入り禁止になっている。
当然の如く、構わず突破する。警備のアルバイトが追いかけてくるが気にしない。映二は振り返らない。透子もヤケになっている。すぐに警備のアルバイトの声は遠のき、消えた。スピードを緩めない。大橋の袂は目前だ。辺りは暗く、大橋の下、死角である柱付近には土手の上の煌々としたライトの明かりもろくに届かない。


「あっ!」映二が突然止まる。ヤケくそで滑走してきた透子は映二の急停車に間に合わずに、既にボロボロになっているミュールのつま先を土にひっかけて派手に草むらに倒れた。

・・っっ!?・・・最悪。もう、ほんっと最悪!馬っ鹿じゃないの!?

途中からヤケくその透子は一瞬目的を忘れていた。憤りとしんどいのと、情けないのとでもう駄目駄目だ。
疲労に潰れたまま、なんとか手をついて半身を起こし、うな垂れた。土を掴んだ手は汚れて震えている。うな垂れたまま土の詰まった爪の先を見つめていると、前方で重たい音がした。
はっとして透子が前を見ると、先ほどまでの異常なまでの激しい士気で以って、暗闇と煌々とした人垣の中をとんでもないスピードで走っていた男とは思えぬ様な格好で、映二が意気消沈してへたり込んでいる背中が見えた。
いつの間にか花火が上がり始めていたらしく、すぐ近くの打ち上げ現場から上がる花火の激しい爆発音と共に色とりどりの光がリズムよく、大橋の袂の草むらの一帯の闇に差しては消えたりを繰り返している。


そして映二の肩越しの暗闇に、そんな場所には似つかわしくないある色彩が見えた。眼の焦点がそこに吸い寄せられていく。

・・・紫がかった淡いピンク色の花火の光が大橋の下に一瞬だけ、しかしはっきりと照らし出した。
小さな金魚帯、潰れた風車、柱に寄り添う様にして倒れている・・・・・・少女。
力なく横たわるあの絵の中の、少女・・・。

はだけて乱れた浴衣姿の少女は安っぽい金魚帯を纏い、色彩やかに散り、忘れられ、枯れてしまった百合の様だった。

・・・映二のスケッチは見事に的中した。チンケなフィクションなんかではなかった。先ほどまでの無数に湧いて出てきた苛立ちや憤り等等の生ぬるい雑魚らが一気に冷え固まっていく。

・・・本当だったのだ。

映二がスケッチブックに描いた、その通りの光景が今、映二と透子の目前にある。
しかし、描かれているのではなく、はっきりとした存在で以って、はっきりとした「死」の匂いを発しながら。
今、目前に・・・

Posted by 芙美子 on 10月 16, 2008 |

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/95766/42792659

この記事へのトラックバック一覧です: EVER AIR@(前):

コメント

いつも、ブログの更新、楽しみにしています。
しっかり読むと、30分くらいかかりますね。
小説を読むように、子どもが寝た後に、
楽しんでいます。
これからも、応援しています。
お体に、気をつけてください。
夜更かし、厳禁ですよ。

投稿: 伊藤 | 2008/10/22 15:06:01

感心した。小説連載になるかも。

大好き。

がんばってください。(゚▽゚*)

投稿: すごいぞ | 2008/10/21 19:13:31

こんばんは、
ずいぶんご無沙汰していました。
楽しく読ませていただいています、
後編楽しみにしています。

PS アメブロでご迷惑おかけしまして、
   申し訳ございません。

投稿: aqua | 2008/10/20 20:50:26

※補足※EVER AIR(後)は月末くらい目指していじってます。アメブロ→aqua room→http://m.ameba.jp/m/blogTop.do?unm=yo-mitsuki
は比較的生活臭があるので、こちらもよろしくね◎ってかこっち(酔芙蓉)の方がアングラです。
文章中毒者ブログにしちまって、
ごめんなさい!
でも好きっ。笑

投稿: | 2008/10/18 19:07:57

その横顔セクシー♪
って歌詞の歌があったような気がします
・・・
で(笑
なんていうんですかね
文章を書くというのは・・・書けるというのは魅力的ですね
なんていうか、なんていうか、
言葉では表しにくいのですが

とりあえず続きが見たいです

投稿: 雪○ | 2008/10/18 1:20:17

「ピンとキリは~」もよかったけど、今回の作品はもっと上。
完結したらかなりの秀作になると予想。
蓉姉は大きな壁を1つ乗り越えたのかもしれない。

前編だけ読む限り、アイディアもいいけど、小説作法に則って
プロットやストーリーをしっかり練り上げているところが特筆モノ。
文章からは迷いが感じられなくなり、「作者として細部まで
きちんとコントロールするぞ」という意気込みが伝わってくる。
飽きさせない仕掛け、比喩を駆使した情景・心理描写も冴えて、
透子目線の世界に安心して没入できる。

女優業のほうがちょっぴり気になるかな。創作活動とは
相互にメリットがあるはずなので、ぜひ両方とも頑張ってね。

投稿: kk | 2008/10/17 6:27:39

推理小説かはたまたサスペンスか?もう一度じっくり読み返してみますね。

投稿: 好きだ好きだすき焼きだ | 2008/10/16 21:55:19

こんばんは。

この最長不倒文字数物語(前)をワードに張って
1L40W見開き34L(文春文庫)のイメージでレイアウトして
縦組みの体裁で文学として愉しんでいます。

文庫に置き換えるとすでに80ページ近く。
既に個性派らしい風格のある文体といい
精進に精進を重ねられているんだなと
感慨深く読ませていただいています。
透子がそうであるようにテレビよりも
本でガランドウを埋める活字中毒患者としては
これはかけがえのない物語になりそうな予感。

畳み掛ける(前)の終盤はちょっち鳥肌ものでした。
前頭葉がグラグラしてます。
もう続きが読みたくて仕方ありません。

どうやら推敲の楽しみもたっぷり味わって
さらにドップリ深く深くはまってらっしゃるご様子。
でも、細かいところは出版社の編集担当者が
プロのテクを駆使してご進言に及びますからご心配なく。
んだもんで、ちゃんと寝てくださいね。
夜更かしは美肌の天敵ですよ~ん(^^;)

投稿: 葦野 | 2008/10/16 21:55:12

すごいですね。いけてます。前半に集中して ”ほぼ” という あいまいな ことのは を 8回も使われていますが、これは後半盛り上げるための意図的な言葉なのでしょうか?

投稿: とど | 2008/10/16 21:42:06

コメントを書く